週末、叔父と叔母の銀婚式のお祝い会食があった。
25年かあ、あっという間だったな。
当然ながら、33歳の私の両親はとうに銀婚式を終え。
実は昨年12月、結婚40年目を迎えた。
叔父と叔母は再婚であり、叔母が始めて家に来た日。
私は今でも鮮明に覚えている。
小学生になったばかりだった当時。
叔父の家とは隣り同士。私たちは一緒に生活をしていた。
なぜならば。叔父の前妻が病に倒れ入院する間、
京都から祖父母が上京しており。
叔母が亡くなったショックから、引き続いて祖母が体調を崩した。
父や叔父は、当時30後半~40代前半だったのだろう。
働き盛りで家庭を省みる余裕が無かったのだと思う。
ママはいつも、誰かが入院する病院に詰めていて。
従兄弟2人とおねえちゃま、私の4人はいつも、どちらかの家で固まって過ごしていた。
2つの家族、私たちはいつも一緒で。その1ピースが失われるのがこわかったのかもしれない。
その、ひっそりと吹く隙間風を防ぐみたいに、いつも皆でくっついては、はしゃいでいた。
祖母がいよいよ容態が悪くなり。祖父もやつれ果てたその時。
彼女はやってきた。
私は子供の頃、妙に正義感の強い性質を持っていて。
転入生や、立場の弱いものを必要以上に庇護するようなけらいがあった。
叔母が来たその日も。妙に気をまわし、駅までの道を一人迎えに行った記憶がある。
あれから、25年。
叔母はとてもよく出来た人で。わたしも、たくさんたくさん助けてもらっている。
叔父はいつも、銀座に飲みに連れ出されると、口癖のように言うことがある。
「お前たちがいなかったら、僕の今の家庭は無かった。ほんとうに頭が上がらないほど感謝している。」
学者である父と正反対の、経営者である叔父。感情先行の母と正反対の、冷静な叔母。
言ってみれば。両親が2人ずついるようなものである。
私は、叔父に誰よりも可愛がってもらっているし、叔母にも、心から大切にしてもらっている。
私の家と、従兄弟の家。カラーは全く違うけれど。相変らず仲良くいつも集まっている。
私も、そんな風に誰かに感謝を伝えることができて
誰かを幸せな思いで満たすことができるような
家庭を持って、いつかその幸せを真に理解できるのかもしれないと思った。
結婚式の日に食事をしたあのお店で、従兄弟は結婚式を挙げ。そしてまた銀婚式を祝った。
その大切なお祝いのケーキを、私は頂いて家で食した。
ケーキは普通のショートケーキなのだが。刻まれていないイチゴが丸ごと大量に入っており
その優しい様相からはちょっと想像を裏切るような、ごつごつとした食べ応えだった。
もっと優しい気持ちにならなくてはいけないと、あれこれ思いを馳せた夜。