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死産に関するブログです。
閲覧は自己責任でお願いいたします。
※このブログは2018年4月末、18週2日で初産で死産をしたことの記録をするものです。
はじめての方はこちらの記事をご覧ください。
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※全ての記事に心情の付記がありますこと、あらかじめご了承ください。
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諸事情で火葬の日まで少し時間があくことになった私たち。
偶然GWに入り、主人とずっと一緒にいることが出来ました。
色々な話をして、散々泣いて。毎日泣いていました。
が、ここでハプニング。
ある早朝、遠方に住んでいる実母から電話がかかってきました。寝ぼけながら電話に出ると
「今、斎場にいるんだけど」
「えっ?!なんで??」
「日にち勘違いしてきちゃった……」
赤ちゃんの火葬は骨が小さく脆いために燃えやすく残りにくいので、一般的に火葬はその日の一番最初の時間帯にやることが多いです。
なのでレイの火葬も朝早い時間でした。
……が、日にちが全然違うよ!お母さん!!
驚いてしまいましたが、遠方から恐らく始発で来たであろう母にそのまま帰れという訳にもいきません。とりあえず斎場からうちに来るように言って電話を切りました。
寝ている夫を起こして伝えると「え?!」とやはり驚いていましたが、私も実母もおっちょこちょいなところが似ていることもあって、泣きはらした目ではあったけど、夫は笑っていました。
喪服の母を家に迎え、少し話をしましたが、私はイライラしていました。
私の実家の家族関係は非常に複雑で、母との関係も良いものとは言えません。昔から私の母は人の話をきちんと聞かず、自分のことばかりでした。
こんなに大事なことすら話を聞かないのか。
私の子が亡くなったのに。
自分の子だったらどうしたの?どんな気持ちになったと思う?
母を責め立てる気持ちで脳味噌がいっぱいになってしまいました。すごく不安定でした。
こっそり夫にLINEをして母の応対を申し訳ないながら任せ、私は寝室のベッドに潜り込んで泣きました。
あとから考えれば母は母なりに私を心配してくれていて、パニックになっているところもあったのだと思います。だから仕方なかったと今なら思える。
でもその時はそう思えませんでした。
重症妊娠悪阻で入院した私に「お前のせいで赤ちゃんが死ぬ!」と言われたことも頭の中でずっと燻っていて、どうしようもなくイラついていました。
数時間で母は帰宅しました。
これも今考えればですが、片道3~4時間の往復、大変だったと思います。母も大変だったし、有難く思わねばという気持ちもあります。
でも、その時はだめでした。
数日後、今度こそ本当に火葬の日。
実母はあまりにも遠方なので前泊してもらいました。義両親は電車で1時間ほどのところにお住まいなので現地集合となりました。
火葬の日の朝。
ああ、本当にお別れだ。
私の気持ちはどんどん不安定になっていきました。
栄養状態が酷くめくれ上がった皮膚は治っておらず、化粧をすることも出来ませんでした。
黒いワンピースに着替えて、夫と母と家を出て駅へ向かいました。
ずっと寝た切り+入院していた私は駅までの道を歩くのも、階段を使うのも、何もかもが遅く、全てに息切れが止まらず、汗ばんでいました。
奇しくもこの日も快晴でした。さすがレイ。晴れ男だ。
駅の改札に入ってから夫が買ってきていた花束を忘れたことに気付き、彼だけ家に走って戻り、私と母だけが先に電車に乗ることになりました。
よろよろと手摺に縋りついて階段をのぼる私は明らかに異様な眼で見られていました。母に支えられて何とか上がり、電車は空いていたので座れました。
母に大丈夫かとか心配されましたが、大丈夫ではなかったし、言葉を発することも出来ませんでした。
ただただ俯いていました。
これからの火葬が、あまりにも辛くて。
頭の中が真っ白というよりは、真っ暗でした。
最寄り駅で夫と合流し、火葬場に着くと、既に義両親がいました。
つわりが酷くずっと私からは連絡していなかった義両親。
私は会った瞬間に深く頭を下げて謝りました。何て言葉だったかはあまり思い出せません。でもとにかく反射的に出てしまった涙と共に、何度も謝りました。
実母も深く頭を下げて「この度は本当に申し訳ございませんでした」と言っていたように記憶しています。
義父はそんな私に「大変だったね」と労ってくれました。義母も「大丈夫?」と心配の言葉こそかけてくれるものの、ひとつも私を責めることはしませんでした。
それが有難くて、でも申し訳なくて、辛くて。言葉にならず、トイレに行ってしばらく泣いていました。
定刻になり、私たちは火葬場の入り口というのでしょうか、そこに呼ばれました。
斎場の担当者の方に深々と頭を下げられ、こちらも礼をしました。
この斎場には赤ちゃん専用の弱い火で焼くものがあり、ゆっくり時間をかけることでなるべく骨を残るようにすると説明を受けました。
よかった。何もなくなってしまったという情報も見ていたので、そこはほっとしました。
レイは良い厚紙の箱の中で眠っていました。
数日ぶりに見たレイは、やっぱり可愛くて。頭の形まで夫にそっくりで。
見た瞬間に「レイちゃん」と呟いてから号泣してしまいました。
最後のお別れの時間は15分ほど。
最後の挨拶をしなければならないのに、私の涙は止まりませんでした。
義両親は買ってきた花をたくさん棺の中に入れてくれました。
実母は「レイくん、えらいね。頑張ったね」など、たくさん声をかけてくれました。
私たち夫婦は、用意してきていた手紙をレイの前で声に出して読みました。
夫の後、私も読みましたが声が震えて上手く読めませんでした。
でもどうしても伝えたかった。大好きなこと。ずっと忘れないこと。大事な第一子であること。本当に愛してること。もっともっと伝えたいことやりたいことたくさんあった。
でも、時間が来てしまいました。
手紙とお菓子、そしてたくさんのお花に囲まれたレイの棺に、全員で蓋をしました。
火葬の時間は40分ほどでした。
ロビーの一角にある待合所で火葬が終わるのを待ちました。
私はもう何も考えることが出来ず、時折止まらない涙を拭うくらいで何もしゃべれませんでした。
夫と親たちは色々話していました。レイのことも、とりとめのない日常のことも。
何もかもがよく分かりませんでした。
窓から見える空がとても青くて眩しくて、頭の中は空っぽでした。
40分後、係の方に呼ばれて、荼毘に付されたレイに会いました。
特に足の骨がしっかり残っていました。
箸で拾うともろくて崩れてしまうということで、指先で足の骨を小さな小さな骨壺に夫と二人で優しく滑らせて入れました。本当に脆いそうで、あとは専門の係の方が入れてくれ、骨壺を包んで渡してくださいました。
ここで私は初めてレイを抱っこすることが出来たのです。
荼毘になるまで抱っこすることが出来なかった。
レイちゃん、遅くなってごめんね。
でもやっと抱っこできたのが嬉しくて、斎場の中でも目立つくらい泣いてしまいました。
小さな小さな骨壺を胸に抱き、更にそれを包んで電車に乗って帰りました。
かなり足腰がきつかったのですが、レイと初めて電車に乗れる機会だったので、窓際に立って外を主人と眺めながら帰りました。
帰りに実母が「リンゴジュースを買ってあげたい」と言いました。
赤ちゃんと言えば(新生児には早すぎますが)りんごジュース。なんかわかる。
コンビニで小さなパックのを買ってあげて、帰宅しました。
おばあちゃんに買ってもらえてよかったね、美味しいかなあ、と声をかけ、さあ、おうちだよ、ただいまだね、と言いました。
花を活けて準備していたレイ用のスペースに骨壺を置きました。
レイちゃん、おかえり。
ここがあなたの家だよ。
これからもお父さんとお母さんと一緒だからね。
たくさん泣いて、たくさん言葉をかけました。
私たちのところへ来てくれてありがとう、レイ。
大好きだよ。ずっとずっと愛してる。
~死産記録 終わり~
[付記]
自宅供養としているので今現在(2018/07/13)は納骨していません。まだ納骨するか決めていませんが、今もレイは自宅にいます。
火葬後の話は死産後の心身記録や他のカテゴリーにも書いていますので、そちらをご覧ください。