愛に垣根はないけど、
境界線はとても大切。




愛と愛情のちがいは、
「情け」があるかないかだと思ってて。



愛はときに、人間意識の視点からみると
無慈悲に写るほどに、慈悲深い。

そこに「情」は絡んでいないからだ。




向こうが透けそうなほど
透明な愛がそこにあるだけ。



「一刀両断」
「冷徹不動」


そんな感じ。




それがないと「情」が入り込んで
クリアな視点から見れなくなる。





〝つまんねえことすんなよ〟

って、聴こえてきた。

獅子だ。





中学の頃、HPをつくっていたとき

怒りも、悲しみも、喜びも、何を感じても、
どんなことも、全部、書き綴っていた。


湧き上がるままに、ただ、書いた。


何ひとつ飾らない、ありのままの、そのままの
裸のままの〝いのち〟が、そこにあった。





〝感情の伝染力はすさまじい〟
ということを幼い頃から実感していたわたしは、

落ち込んでるとき、元気がないときは人に会わず
ほんとうに、とことんまで落ちるようにしてた。




とことんまで落ちて、落ちて落ちて、
そしたら視えてくるものがある。

そこからまたパワフルになったら、
まるで何事もなかったかのようにまた人前に出る。




いつからかネットは進化し、SNSも発達して
みんなどこか「飾った部分」や「仕事用の顔」
「人に見せてもいい自分」しか表現しなくなった。


むかしのネットの世界は、もっとみんな
〝ありのまま裸〟だったように思う。




深い震源地から、やってくるもの。




わたしはいつも
「いのち剥き出し」に惹かれる。




それは「感情的な」ということではなく、
その感情を超えたところの視点から
感じたことを感じたままに綴る人に惹かれるのだ。



〝アートだ〟

そう感じるのである。




〝ああ、ここにいのちがある〟




わたしが音楽を愛しているのは、
そこから来ているのかも知れない。





直接人にぶつけるわけではない〝これら〟を
芸術、音楽、文章、になら、ぶつけていい。

「自分の世界」になら、ぶつけていい。





そうだ。ブログやSNSになると、
いつものように綴れないのはなぜかと思っていた。



わたしはそもそも、ふと感じた
「誰に向けたものでもないこと」や
「誰に言っているわけでもないこと」


〝全体の流れ〟を観察して感じたことや
それに対して思うわたしの感じたこと


または、直接こちらからは手を出さないけれど
届けたいただひとりの〝誰か〟へのエールや


〝過去の自分〟に向けて、
まっすぐに書いたりしていた。


または〝そう言われてる気がする〟という
深く響くものを、そのまま。





「世界」に「わたし」しかいなかった。





「わたし」と「わたし」か

「わたし」と「ただひとりの誰か」か。





だけどなぜか「社会との窓口」のような
どこかそんな気分になるときがあって、

そんなときは、書けなかった。





「慈愛からくる怒り」という
「マグマのような情熱」が強すぎて。


この「火のエネルギー」を
そのまま出していいのかと、躊躇していた。





だけど、わたしの〝本質〟は、そこにある。






〝適切な表現〟

まるで、枠や正解があるかのような。



〝大人としての適切な対応〟

まるで、大人とはこういうもの、があるかのような。






どこまでいってもわたしはわたしでしかない。

どこまでいってもあなたはあなたでしかない。





わたしは「オトナな対応」てきなこと
そういうの、よくわからないけど

冷静に、客観的に、物事を眺めることはある。



「あ、この人、赤ちゃんになってるんだな」
ってわかったときは

「赤ちゃん」として対応する。



それは、大人としての適切な対応、というより
相手に対する理解と、心地よい距離感の見極め。

これは、水商売で会得したものだけど。




「人間」としてみたり、
「肩書き」でみたり、
「肉体年齢」でみたりすると、

「その瞬間赤ちゃんになっている人」をみたときに
なんかごちゃごちゃしたもん、出てくるから。

それがあると、本質がみれなくなる。





わたしはいつも、素直でいたい。


「どう思う?」と聞かれたときに
それに対して〝どうでもいい〟と感じたなら
そのまま「どうでもいい」と答える。

わたしにとってはそれが〝ほんとう〟





「人に見せてもいい芸術」と
「人に見せてはいけない芸術」があるとするなら

わたしは、そんな芸術、いらない。

かといってべつに、正当化もしない。






そのなかでも〝光〟を見失わない人

それら全部をありのまま愛せる人こそ

ほんとうに〝愛〟だと感じる。






そこを抜けてこそはじめて
視えてくるものが、いつもあるんだ。


わたしは今、これを
「人に見せるため」に書いているのではない。




もちろん、明るくふざけるわたしも、
ただ抱きしめたくなるわたしも、

どれもわたしだけど。



根底はやはり、破壊神チックだ。




そりゃそうだよね。


肚にいる〝わたし〟は、
生み出しもするし、殺すことも厭わない。



愛をもって創造するし、

愛をもって破壊するんだ。




美しい表現も好きだけれど、

湧き上がる情熱のままに

飾りっ気のないダイレクトな表現も



わたしは大好きだ。







「うるせえ。わたしはわたしだ」

と、低い声のドスがあがってくるとき、



わたしは、最高に滾る。