ザッツザプレンティ物語〜悲願は父から子へ〜

はじめに

長すぎて1つのページへの投稿限界を超過したので添削しようと試みたかったのですが、全文消失して意気も消失しました

なので当初の文面を思い出して2分割で投稿します。

文字数だけなら100ワニより長いので出版したさです誰かクラウドファンディングで金集めて下さいww

では。




この物語は、7年越しのドラマが満載です。

父と子のドラマ
血の宿命
人間を交えたドラマ

このようなものを、主観をたっぷり交えて書いていきます。


プロローグ ~出生~

2000年5月26日、社台ファーム千歳空港牧場にて1頭の牡馬が生を受ける

父:ダンスインザダーク
母:バブルプロスペクター
母父:ミスワキ


ザッツザプレンティと名付けられた仔は、同牧場生まれのネオユニヴァースとは生まれながらのライバルとして常に比較され、藤澤厩舎との競合の末に父の故郷でもある橋口弘次郎厩舎へ入厩が決まる。

母バブルプロスペクターの母バブルカンパニーは奇しくも父ダンスインザダークの同級生であるバブルガムフェローの母でもあり、その兼ね合いもあり藤澤厩舎からのオファーがかなり強かったそうです。

いずれにせよ、クラシック級と評された大器が無事橋口厩舎にやってきました。


第1幕 ~橋口弘次郎厩舎~

GIでは常連となっている橋口厩舎ですが、この時点で勝利しているのは
レッツゴーターキンの天皇賞(1992年)
ダンスインザダークの菊花賞(1996年)

そしてこれ以降、2着を重ねる事8度・・・

キュンティア:阪神3歳牝馬S(現、阪神ジュベナイルフィリーズ)
ダイタクリーヴァ:皐月賞・マイルCS
ローズバド:オークス・秋華賞・エ女王杯
ツルマルボーイ:宝塚記念(2度)


とまぁこんな感じで近くて遠いGI制覇への道のり、7年は長い月日でした。


私と橋口先生との出会い?は1995年の夏、JRA展なるイベントでトークのゲストに来られていた時でした。

質問コーナーでたまたま選ばれた私は

「来年のクラシックを期待出来る馬はいますか?」と質問しました。

先生の答えは

「期待をかけているのはどの馬でも変わりないですが、強いて挙げるなら…牡馬ならダンスインザダーク、牝馬ならイブキパーシヴですね。特にダンスインザダークは今年のオークスを勝ったダンスパートナーの全兄弟ですし、3冠を意識させてくれる逸材だと思っています」

という感じで答えてくれたのを覚えています。


第2幕 ~ダンスインザダーク 1996年牡馬三冠の激闘譜前編・春~

父:サンデーサイレンス
母:ダンシングキイ
母父:ニジンスキー

全姉にオークス馬ダンスパートナーを持つサンデーサイレンス2期生として橋口厩舎に入厩してきた大物感漂う牡馬。

暮れの阪神開催初日5R、芝1600m戦でデビューすると翌日のGI阪神3歳牝馬ステークスを凌ぐタイムで圧勝!

直線で豪脚を繰り出した際に観客が沸き立つとその声援に驚き、内へ大きくヨレながらの圧勝は、幼さを感じるとともに将来性を充分に感じる内容でした。

そして翌6R…芝2000mの新馬戦でもう1頭の大物がデビューをこれまた圧勝で飾りました。

ロイヤルタッチ
父:サンデーサイレンス
母:パワフルレディ
母父:マルゼンスキー

異父兄にダービー馬ウイニングチケットを持ち名門伊藤雄二厩舎に入厩、ダンスと同じ武豊を背に期待に違わぬ強さで勝ち上がりました。

そしてこの2頭は、早くも3週後のラジオたんぱ賞3歳S(ラジオNIKKEI杯2歳Sを経て、現ホープフルステークス)でいきなり顔を合わせる事になります。

結果はロイヤルタッチが1着、ダンスは幼さを見せ3馬身ほど離された3着でした。
2着はこれもサンデー産駒の大物、イシノサンデーでした。

イシノサンデー
父:サンデーサイレンス
母:ジェフォリー
母父:アリダー


…無駄だし関係もないですが、この時に大物感たっぷりで4着に食い込んだヤマニンメテオールも私が忘れえぬ馬です。
ポツンと1頭、上り最速という言葉は同馬のためにあるのです、機会があれば是非見ていただきたい。
※デビュー2戦目から8戦連続最後方から上がり最速です←見たくなりました?画像でどうぞ。




しかしこのレースで、ダンスに将来性を感じた武豊は迷う事なくタッチではなくダンスに騎乗、生涯その背を譲る事はありませんでした。

そしてこの3頭に朝日杯3歳Sを圧勝したバブルガムフェローを加えた4頭が「SS四天王」として翌年のクラシックを席巻する事になるはずだったのです、そう年明けまでは。


1月5日…金杯を迎えたその日、更なる大物がデビューを迎えました。

フサイチコンコルド

父:カーリアン
母:バレークイーン
母父:サドラーズウェルズ

例年クラシック戦線を賑わせる小林稔厩舎が送り込む大物が、若手の筆頭株・藤田伸二を背にギリギリのデビューを無事勝利。
次走はすみれSへ向かう事になり、本番までSS四天王と顔を合わせる事はありませんでした。
そしてそのすみれSは、オープンとはいえ土曜の9レース。本来であればさほどに注視されることはないところでしたが…
この日のメインに組まれていたのは阪神大賞典
…そう、後の世どころかレース当日に伝説と化したナリタブライアンとマヤノトップガンの歴史に残る一騎打ちの当日だったのです。
そんな経緯もあり、フサイチコンコルドも一躍クラシック候補として注目されることとなったのです。

帰路には「ダービーはダンスとフサイチの1点でいい」と公言してしまった次第です。

そしてフサイチコンコルドは皐月賞には出ずプリンシパルSからダービーのみを目指すとの意向が出たのです。


さて、ダンスとロイヤルタッチの2度目の対決はきさらぎ賞

昨今こそここから皐月賞やダービーへ直行する馬も多いですが、当時はあくまで「トライアルのための前哨戦」という位置付けでした。

レースは早めに抜け出した武豊騎乗のダンスをペリエ騎乗のタッチが長い追い比べの末で計ったように差し切る横綱相撲でした。
後続を突き放した競馬でしたが、正直その時点では「この馬にはまだちょっと敵わないんじゃないか?」とも思える内容でした。




その間イシノサンデーは、雨でダート変更となったジュニアカップを独走で圧勝し、ダンスの次走である報知杯弥生賞へと進めてきました。

弥生賞は、ダンスが後方からイシノをマークする感じで流れ、直線いつになく鋭い末脚で2着ツクバシンフォニーを突き離し完勝でした。




3着に敗れたイシノサンデーにはラジオたんぱ杯の雪辱を果たし、勇躍皐月賞の本命候補に名乗りを上げました。


武豊は後に「この勝利ではっきりと三冠を意識した」と語っています。

ロイヤルタッチは岡部幸雄を新たな鞍上に迎え若葉Sをステップに選んだものの、伏兵ミナモトマリノスに足元をすくわれる形に。

バブルガムフェローはスプリングSを圧勝し、最有力候補として皐月賞を迎える事になりました。

しかし。

ダンスインザダーク、熱発で皐月賞を自重。

バブルガムフェロー、骨折で春絶望。

前週には、チューリップ賞を楽勝し桜花賞の最有力候補だったエアグルーヴそして橋口厩舎のロゼカラーも熱発で回避しており、少しだけ嫌な予感はあったのですが…無念の回避です。

ダンスは一週前追い切りで最高の仕上がりを見せており、橋口先生をして「今ならどんな馬にだって負けない自信がある」と言っていたのですが…そして、引退するまでこの時の状態になる事はなかったそうです。

そして2強不在となった皐月賞は、残った2頭…イシノサンデーが1着、2着にロイヤルタッチが入り前年に続きサンデーサイレンス産駒のワンツーという結果でした。


皐月賞を断念したダンスは、ダービーへ向かう前に前哨戦の1つとしてNHK杯に替わり新設されたプリンシパルSを使う事になりました。
よもやの皐月賞回避により、思わぬ形でフサイチコンコルドとダービー前に力関係を見れる…

…フサイチコンコルド、熱発で当日朝に同レース回避!

結局、このレースはダンスが地力の違いで圧勝しました。
ただ、本番のダービーまでのローテーションに狂いが出たのは否めません。

イシノサンデー、ロイヤルタッチは皐月賞から直行、結局フサイチコンコルドは3ヶ月振りの実戦がダービー、という事に。


さて、いよいよ本番…第63回日本ダービーです!

前日東京入りし、競馬場正門前で朝を待っていると飛び交う怪情報…


フサイチコンコルドが輸送熱で当日朝追い切りを回避したらしい

この噂は事実でした、体質が弱く事あるごとに熱を出してしまう馬だったとのことでした。

歴史にifを投げるのは躊躇われますが、現在なら回避の選択をしていた可能性もありますし、そもそもプリンシパルSを回避した時点でおそらく出走自体が叶わなくなっていたでしょう。

しかしこれは1996年の出来事なのです…

これは競馬の神が何らかの歯車を狂わせているのだと気付くはずもなく…

正直、ダンスにとって大きな勝機だなぁとさえ思いつつ開門。



初めて行った東京競馬場、まずはその広さに圧倒されました

そして、初めての「関東馬だけの平場戦」で、知らない馬ばかりのレースで負けまくりました…

※当時は平場で東西が交流することはあまりなく、またメイン以外は相互発売もしてなかったためなのです。
ダービー組に帯同の関西馬狙い撃ち作戦が壊滅した次第です、、、


そうこうしているうちに第9R、東京優駿競走の発走時刻が近付いてきました。




初めて現地で聞く関東GI競走のファンファーレ。


大きく出遅れる馬もなくレースは始まり、サクラスピードオーが引っ張る展開になりました。
紅一点ビワハイジも前の方でレースを進めます
2コーナー辺りでモガミプレジデント産駒ザゴールドが引っかかり、サクラに並びかける展開はスローに落としたいサクラにとってはキツい競馬。
向こう正面でダンスは前を取り、イシノサンデーがこれをマークするような位置取り、それを見るようにロイヤルタッチが中段で進み大きな動きもなく3コーナー
大ケヤキの向こうを過ぎていく辺りでサクラスピードオーがやや一杯になりつつ先頭、そして直線へ
ダンスインザダークがこれに並びかけ、追うようにイシノサンデー!しかしダンスの脚色がよく、残り1ハロンで完全に先頭!武豊悲願のダービー制覇…

しかし道中からもう1頭、ダンスに決め撃ちするかのようにピッタリとついていた1頭が競りかけてくる…
赤色、黄鋸歯形、袖黄一本輪…明らかに見覚えのある、正月早々ダービー馬の予感を感じさせたあの勝負服


外からフサイチコンコルド!音速の末脚が炸裂!




残り200mからの最後の叩き合い、フサイチが半馬身ほど前に出たところがゴール。

かくして、日本ダービー史上最短キャリア、デビュー3戦目、3ヶ月振りの実戦という過去に例を見ない3戦3勝無敗のダービー馬が誕生したのです。

橋口厩舎、武豊そしてダンスにとっては試練の春…そして秋へ雪辱を期すレースとなったのです。


※そして私の馬券も、押さえで辛うじて帰りの電車賃程度が戻ってくるのがやっとの有様でした。すみれSの日の誓いはどこへ行ったのやら、、、


第3幕 ~激闘譜2 最後の1冠へ雪辱の秋…栄光と挫折は紙一重~


さて、各馬ともに夏を順調に越し、武豊ダンスと、再び岡部に鞍上を迎えたロイヤルタッチは共に京都新聞杯GII(当時は菊花賞トライアルとして施行)からの始動となりました。

イシノサンデーは、秋緒戦にセントライト記念GIIを選ぶものの、秋の上がり馬ローゼンカバリーの3着と敗れ同じく京都新聞杯へと進めてきました。

レースは、ロイヤルタッチが引っかかり気味に前に行き
ダンスがこれを見る展開、直線半ばでタッチを競り落とすとダンスの独断場
的場均カシマドリームを2着に従え、菊花賞に向けて視界良好なレースとなりました。


他のライバルですが、バブルガムフェローは早々と4歳馬(当時の数え年)ながら天皇賞参戦を表明し毎日王冠から始動、骨折明けながら3着と上々の結果を残し天皇賞へ
そして、グレード制導入後初となる、4歳馬による天皇賞制覇という快挙を達成しました

フサイチコンコルドは京都新聞杯を目指すも調整遅れで回避、カシオペアS(オープン特別)からの始動でしたが逃げた福永祐一メジロスズマルを捕らえきれず2着に終わり、菊花賞を前に無敗が途切れたもののそのまま本番へ
イシノサンデーは京都新聞杯で5着に沈み、その後はダート路線へと駒を進め盛岡のダービーグランプリGIを制覇、4歳馬として史上初「芝&ダート双方のGI制覇」という快挙を達成したのです。


そして迎えた1996年11月3日 菊花賞当日


朝から晴れ渡る京都競馬場、ダンスインザダークは堂々1番人気に推されました

問題は大外17番枠、しかしこの枠番は武豊にとって相性のいい枠番…
そう、初GI制覇となったスーパークリークの菊花賞も17番だったのです




ゲートが開き、各場とも無事にスタートを切りました

セントライト記念組が全体的に前に行く流れ、ローゼンカバリー、サクラケイザンオー辺りが早めの競馬を見せ向こう正面ではダンス、タッチ、フサイチともに中段を追走
3~4コーナーでペースが上がり、馬群の真ん中を追走していたダンスはちょっと窮屈な位置に

下がって来た馬が壁になり、最後方まで後退!最悪の結果か!?
実況さえも、一度見失い
ダンスピンチか!?と叫ばれてしまう悪夢…

直線では内からフサイチ、真ん中を割ってタッチが前を行くサクラ、ローゼンを捕らえ、2頭の叩き合いになり、残り200m・・・     ・・・!!!

馬群に沈んだはずのダンスインザダーク!何と外から1完歩ごとに差を詰めてきました!

ゴール寸前、2頭を差し切ったダンスインザダーク


あっという間に前交わし去り、最後の1冠を掌中に!

3000mという長丁場で、最後方に下がってしまってから馬群を縫って驚異の末脚で追い込んできたダンスインザダーク…手品を見ているようでした。
まさにユタカマジックの真骨頂をまざまざと見せつけ、執念で掴んだ最後の一冠。

ゴールを過ぎ、武豊としては珍しく何度も何度もガッツポーズを繰り返しウイニングラン。


インタビューでの言葉が印象的でした

「春の借りを少しは返せたように思います」


しかしその栄光から3日後…


調教中に屈腱炎を発症、種牡馬入りの報



武豊をして「栄光と挫折は紙一重」という言葉に表れているように、自分の脚を犠牲にしてまで菊花賞という大輪を射止めたダンスインザダークは、その後の栄光を自分の産駒に託す形で、その短すぎる競走生活を終えたのです。




※なお、この執筆は2003年菊花賞当日に書き綴っていたものをネット上から掘り起こし、17年弱を経た2020年現在に沿うよう加筆&修正を施したものです