震災から4年
昨日は寝ぼけ眼でしたので、今日はしっかり書きます。
東北の様子はどうなったのか…
復興が進んでいる町と、人が住めるような状態ではない町とが混在しているということ、そのコントラストの差が、この震災のすさまじさを物語っているような感じがしませんか?
東北ほどではありませんが、千葉も津波や液状化、放射能汚染などなど、様々な被害が出ました。
2011年3月11日の私はというと…
当時、千葉盲の生徒だった私は、この日は午前中が送別会、午後は大掃除でした。
2児46分頃、掃除も一段落した私はトイレに行き、荷物を片づけていました。
すると教室全体が揺れはじめました。
その揺れは長く続き、次第に強くなっていきました。
それまで大地震など経験したことのない私ははじめて体験する揺れの強さに恐怖を感じたのをよく覚えています。
しかも運の悪いことに教室には私一人しかいません。
当時はまだ今より視力はあったものの、弱視の人間にとっても部屋や町の様子が変わってしまうことは大変なことです。
校内放送が入り、先生が
「外に出ろ、!」
って叫んでいるのが聞こえてきます。
揺れがおさまり、教室を飛び出した私は急いでグラウンドへ…
すると残っていた生徒たちがもうすでに集まってきています。
私より早く学校を出て駅に向かった子たちは、駅で足止めをくらい、先生が迎えにいったりしていました。
ちなみに電車は翌日の昼頃から動きました。
時間帯は夕方、日が沈むと気温はどんどん下がってきます。
一行は体育館へ移動となり、点呼ののち、お茶と備蓄食糧が配られました。
体育館にはラジオにが流されており、津波や原発のニュースがどんどん耳に入り、震災のすさまじさを知りました。
さて、我々視覚障害者は交通弱者です。
電車やバスが動かなければ誰も家に帰れません。
ましてや盲学校なんて県下に1、2校しかないため、家が遠い生徒もたくさんいます。
そこで、この日は、体育館、柔道場、マッサージの実習室に分かれて眠ることになりました。
しかし夜中も余震が続き
小さな子供たちの鳴き声や、
「起きろ、!」
という先生の怒声が響き、とても寝れたものではありませんでした。
そのうちに親や家族が迎えに来るものが出てきて、人は少しずつ減っていきました。
夜中の1時頃に大きな余震が来てから、先生の指示で靴とヘルメットをかぶったまま眠ることとなりました。
そのうちに空が白みはじめ、夜が明けました。
首都圏の電車はようやく少しずつ動き出し、帰るものも徐々に出てきました。
しかし計画停電への対応から本数は少なく、三方を海に囲まれた千葉県は津波の危険もあるため、沿岸沿いの電車が回復するのは、それから一ヶ月後くらいでした。
私は夜中に母が迎えにきてくれたので、一緒に帰りましたが、一番最後まで残った子は2日間を学校で過ごしたそうです。
翌週も学校は臨時休校となり、卒業式には半分以下の生徒しか参加できませんでした。
学校はそのまま春休みとなり、始業式や入学式は難なく執り行えたものの、節電の影響で教室や廊下は薄暗くなり、夜盲のある生徒にはかなり苦痛だったことと思います。
震災から一ヶ月くらいはお店に品物がなく、町も千葉の閑散としていたように思います。
あれから4年が経ち、ややもすると忘れ去られてしまいそうな今日この頃…
日本は地震や台風など、災害の多い国です。
いざというときのための準備を忘れず、そして、つつがなく日常を送れることに感謝したいですね。