会社続けようか辞めようか迷ってます

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新入社員として日々を葛藤しつつ過ごす青年の様々な雑記
(日常から社会評論まで。書き手募集中)

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山田かまちという作家というか、画家がいた。
詩や絵、音楽を生み出しながら高校生活を送っていたが、17歳の時に急死する。(死因は汗だくで上半身裸でエレキギターを弾いていたところ、感電したからだという)
しかし死後に作品が評価され、美術館も建てられ、美術館には氷室京介等、有名人が言葉を寄せている。かまちの人生は映画化もされた。
私がかまちの美術館を見に、1人群馬へ長い電車旅をしたのは高校2年の時だが、その時のパンフレットをたまたま今日、私の実家の部屋でチラッと見て、かまちの存在を思い出したのだ。

かまちの人生は悲劇だが、1つの完成された、立派な人生でもある。

早死にしながらも、立派に人生を完成させた人達。
尾崎豊やhide、チェ・ゲバラといった人達。
こういった崇拝を集めた偉大な人生は、周囲の人生を巻き込むような悲劇を起こす事がある。
熱烈なファンや崇拝者が後追い自殺を起こすのだ。残念な事である。

「あなたが死にたいと思った今日は、誰かが全力で生きたいと願った明日」

引用が不正確で申し訳ないが、上の名言はまさに正論である。
しかし後追いする人の気持ちも理解できなくはない。それほどに偉大な人だったのだ。

「私にとってこの人がいなくなってしまったら、生きる意味はない」

この問題をどう考えたらいいか。私は「後追いしたい」考えと「死ぬべきではない」考えの間の裂け目に立って、ある考えにたどり着いた。

「人間だれもがそれぞれの歳で、余生を送りうるのではないか」

という事だ。
「私にはもう生きる意味はない」と誰かが考え、実際にそのように振る舞い始めた時、周囲も彼/彼女を普通に日常を生きる人間としては接する事はできないはずなのだ。
生と死の間で沈みそうになる命、精神。私はこのような状態を「余生」と言えるのではないかと思う。

人間は不十分ながらも共感力を持っており、複数の人間、または1人の人間に対し、関係や想いの糸を繋いでいる。
誰かの持っている全ての糸の太さや長さ、色を辿る事で、その人の輪郭が見えてくる事もあるかもしれない。
そしてその人にとって重要な誰かが死ぬか、届かないくらい遠くに行く等して、大切な糸が切れた時、人間を形成している輪郭も剥がれ落ち、その人の1つの生も死に至るのではないか。
心臓は止まらないが、大切な輪郭は死に、取り戻せない、中心を失ったような生。これは余生ではないか。
何歳でも、誰でも訪れ得る、もう1つの、濃い影のような生。

私自身は今までの生を振り返るに、山田かまちほどの何かを創造できた自信はない。
しかし日々の日常や創造行為の中で、大きな何かに繋がりそうな、残骸というか
欠片ぐらいはいくつか生み出してきた自信がある。
そしてそれは論文や詩、文学のような作品だけでなく、日常誰かに言った事や行動も含むのだ。

今私が死んだとしたら、私に深く関わった人達が私との関わり、私の行動や考えについて思いをはせ、語り、戻りはしないが、私についての輪郭を作り出すだろう。
山田かまちほどではないかもしれないが、私の人生も、1つの完成したものとなるのだ。

私は手帳の今年の3月31日
の欄に「学生生活が終わり、労働者になる」狭間の日としてone live one deathと書いた。
BUCK-TICKのアルバムタイトルからヒントを得たイタイ格好付けだが、どう願っても、22歳までの学生生活には戻れない。まあ30歳くらいから大学院いきたいなあ、的な願望はあるが、過去に戻った訳ではない。
死んでいったというか、終わった学生時代の自分から見たら、現在の労働者である私は余生みたいなものだろう。年齢も少しずつ重ねていくし。
寂しいものである。死んだ時間を生き返らせたい、取り戻したいと思う時もある。

しかしである。死んでいく(過ぎていく)時間を想い、生まれていく次の時間を生きるからこそ、それが「世界への信頼」に繋がるのではないかとも思う。
タイムマシン使い放題のねじれた世界にいると、変な気分になってしまうのではないか。バグで最初からレベル100のポケモンと共に戦える、なんてゲームを素直に喜べないのと同様に。
どんなに願っても戻れない貴重な過去の時間を、積み上げていく世界も悪くないだろう。余生でも、時間は積み上げられるし、余生だからある種の開き直りも効く。
北欧ツアーに行った時にガイドさんが「ガイドやる前は全然別な業界で働いていて、30歳から好き勝手生きようと決めていて、実際に30歳からガイドに転職した」なんて話をしていた。

私も30歳からは文化と愛と革命のためだけに生きたいですね。