【名無し先生とお会いしました。 世界の王家はスパルタから来ている・・・という驚愕の事実】
- 2017/01/09
- 16:28
こんにちは、皆様、本当にお久しぶりです。
これまで私が何をしていたかと言いますと、ただ単に仕事に追われていました。
慣れないインドネシアに来て、目の前の仕事で精一杯だったんです・・・
でもね、最近ようやくインドネシアに来て良かったと感じ始めています。
フィリピンだけではわからなかったインドネシア社会の腐敗とは逆に、人々の純粋さ、何よりも治安の良さに気づいて来ました。
ブログをサボっていた期間、世界では様々な事件が起きました。
アメリカ・トランプ大統領戦に勝利、フィリピン・ドゥテルテ大統領就任、パククネ辞任表明、等々、書かなくてはいけないネタが山ほどあるのに、それを横目に過ごして来ました。
このような国際情勢でお忙しい名無し先生とも音信不通になり、先日、お久し振りにメールをやり取りさせていただきました。
そして、なんと、12月に名無し先生とお会いすることができました。
東京のとある駅で明治天皇のお孫さんと待ち合わせをし、タクシーで名無し先生の事務所まで行ったのです。
そこで守秘義務契約を交わしました。
今回、ここに書くことはそこで名無し先生に教わったこと、そしてしばらくのブランク中に私が考えていたことを書こうと思います。
ネットには様々な情報があります。
料理レシピ、価格情報、チケット予約などは本当に便利で活用させていただいています。
まあ、ダイエット法とか、難病克服、サプリメント情報といった、話半分の情報もあります。
その中でも最も気をつけて読まなくてはならないのが陰謀論系情報です(笑)。
私のブログも気をつけてください!!(爆)
皆様の頭で考えて読んでいただければ幸いです。
陰謀論系でも人気を博しているサイトにはレプティリアン、アセンションといったものもありますが、つい吸い込まれそうになっちゃいますよね?
なんてったって夢がありますからね〜
2016年11月22日の東日本大震災の余震と言われている地震ですが、これにはさすがに驚きました。
2011年3月11日の地震は完全にあっち系の人たちが起こした人工地震だということは名無し先生から何度も聞いていますが、それがまた仕掛けられたのかと・・・
でも、一番びっくりしたことは、世の中は○○○宮とシオニストの戦いであるということを教えていただいたことです。
トランプとクリントンの戦いはマジで○○○宮とシオニストの戦いであったわけです。
残念ながら、どちらともベルファシです。
言うまでもなく、クリントンがシオニストで、トランプは南部の勢力です。
そして、○○○宮の勢力はスパルタから来ています。
映画300のスパルタです。
彼らが散らばって世界の王家になりました。
日本の皇居は、バチカン同様、日本ではありません。
当然、そこに住む方々も日本人ではありません。
(Wikipediaより)
ギリシア神話では、トロイア戦争の原因となったヘレネの夫メネラオスがスパルタ王となっているが、トロイア戦争はミケーネ文明時代の話であるため、メネラオスのスパルタは後世のスパルタとは別の国である。
後世のスパルタの建国神話はヘラクレイダイ(ヘーラクレースの末裔)のペロポネソス半島への帰還と共に語られている。王位簒奪を恐れたエウリュステウスによって故郷を追われていたヘラクレスの子孫たちは、アルゴスを打ち倒し、三代目にしてやっと故郷の地であるペロポネソス半島へと帰還することができた。この時、ヘラクレイダイは領地を分け合った。すなわち、アルゴスをテメノスが、メッセニアをクレスポンテスが、スパルタをアリストデーモスが支配することになった。この中で、アリストデーモスは雷に打たれて既に死亡していたため、その子供たちがスパルタを支配することになった。彼らの名前はエウリュステネスとプロクレスと言い、エウリュステネスがスパルタ王家のアギス朝、プロクレスがエウリュポン朝の創始者となった。彼らは仲が悪かったため、二つの王家は一つになることはなく、スパルタには代々二人の王が並立することになった。
こうして、スパルタはヘラクレイダイによって統治され、スパルタ人は大英雄ヘーラクレースの血統に組み込まれたのであった。
ヘーラクレースの子孫たちは、ヘーラクレイダイと呼ばれた。
ヘーラクレースの死後、その子供たちがミュケーナイの王位を望むことを恐れたエウリュステウスは、ヒュロスらを殺そうとして追い回した。アルクメーネーとヒュロスらは、アテーナイのデーモポーンに助けられた。エウリュステウスはヒュロスらの身の受け渡しを要求し、それに応じないアテーナイと戦った。この戦争の中でヒュロスはエウリュステウスの子をすべて討ち取り、エウリュステウスは捕らわれて殺された。
ヒュロスたちはエウリュステウスとの戦争に勝ったが、故郷であるペロポネソス半島に未だに戻れずにいた。しかし、ヒュロスの孫たちはミケーネやアルゴスを打ち破り、遂にペロポネソス半島へと帰還することができた。その際、テーメノスがアルゴスを、アリストデーモスがスパルタを、クレスポンテースがメッセニアを支配することになった。この内、テーメノスの子供であるペルディッカスは、アルゴスの王位継承争いに敗れて追放され、ギリシア北方の地にマケドニア王国を建国した。したがって、アルゴス人やスパルタ人、マケドニア人はヘーラクレースの子孫とされた。また、彼らは皆ドーリス系ギリシア人であったので、ヘーラクレイダイの帰還はドーリス人のギリシア侵入と関連付けられている。
ギリシャ独立戦争(1821年 - 1830年)において、ミストラスはオスマン帝国軍による破壊を受け、灰燼に帰した。ドイツからギリシャ王に迎えられたオソン1世はミストラスの再建を放棄し、1834年に古代スパルタの遺跡の近くに都市を建設することを決定した。新たなスパルティの市街には、並木のある公園が配置され、ギリシャでもっとも美しい街になるよう設計された。古代都市の名を継ぐ新都市「スパルティ」には、ミストラスから建材が運ばれ、多くの住民が移り住んだ。
ギリシャが王政であった時代、「スパルティ公」(Duke of Sparta, Δοὺξ τῆς Σπάρτης)はギリシャ王太子の称号であった。
ドイツ人のギリシャ王
オーストリアのザルツブルクで生まれた。父はヴィッテルスバッハ家のバイエルン国王ルートヴィヒ1世、母はザクセン=ヒルトブルクハウゼン公女テレーゼ。兄にバイエルン国王マクシミリアン2世、弟にバイエルン摂政ルイトポルトがいる。
ギリシャ独立戦争の結果、オスマン帝国からの独立を達成したギリシャの政治体制について、欧州列強は君主国とすることが適当であるとの結論に達した。初代国王としては、東ローマ皇帝の血を引き[1]、列強に対して中立の立場にあるバイエルンのオットー王子をオソン1世として即位させることになった。
1832年、オソンは18歳になって間もなく、当時ギリシャの首都が置かれていたペロポネソス半島のナフプリオに上陸した。彼の周囲にはバイエルンの宮廷から連れてきた多くの廷臣たちがつき従っていた。新国家の財政についてはイギリスおよびロスチャイルド家が保証することになったが、彼らはギリシャの経済状況が思わしくないことを国王に示唆した。 新政府が国民にかけた税金はオスマン帝国時代以上に重たいものだった。国王はギリシャの風習に何の興味も示さず、宗教もギリシャ正教に改宗せずカトリックを信仰し続けた。ただし、ギリシャの文化財流出を防ぐための「記念物法」は1834年に施行されている。
1837年にオソンはドイツを訪問し、オルデンブルク大公パウル・フリードリヒ・アウグストの娘アマーリエ(ギリシア名アマリア)と結婚した。結婚式はギリシャでは開かれなかった。新しく誕生した王妃は政治に干渉し、国民の君主制に対する支持はさらに失われていった。ギリシャの民心を掴もうとして、1841年にクレタ島を併合しようとした動きは列強によって制せられた。
ゲオルギオス1世は、ギリシャの国王(在位:1863年3月30日 - 1913年3月18日)。元々はデンマーク王子だったが、1863年に議会で初代国王オソン1世の廃位と、自身の即位が可決されると、イギリスやフランス、ロシアなど列強諸国の支援もあって、17歳の若さで王位に就いた。これに伴い、デンマークの国教であるルーテル教会からギリシャ正教会に改宗した。
デンマーク国王クリスチャン9世の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(Christian Wilhelm Ferdinand Adolf Georg、ギリシア語: Χριστιανός Γουλιέλμος Φερδινάδος Αδόλφος Γεώργιος)として、首都コペンハーゲンで生まれた。デンマーク王子時代は、父方の祖父グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルムと母方の祖父ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯ヴィルヘルムに因んだ“ヴィルヘルム”の名で呼ばれていた。
1852年に、父が嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の継承者に選ばれ、一家はデンマーク王子ならびに王女の称号が与えられることとなった。兄はデンマーク王フレゼリク8世、姉にイギリス王エドワード7世の王妃アレクサンドラ、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(ダウマー)、ハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラ、弟にヴァルデマーがいる。
ヴィルヘルムはデンマーク海軍の士官として活躍するようになったが、1863年3月30日にオソン1世の後継者としてギリシャ国王に選出され、父より7ヵ月半先に王位に就くこととなった。
1867年にロシア皇帝アレクサンドル2世の弟コンスタンチン大公の娘であるオリガ・コンスタンティノヴナ(ギリシャ語名オルガ)と結婚し、サンクトペテルブルクで挙式を行った。
夫妻は8人の子をもうけた。
- コンスタンティノス1世(1868年 - 1923年) - ギリシャ国王
- ゲオルギオス(1869年 - 1957年) - クレタ島総督。ロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)と共に訪日した際、大津事件に巻き込まれたが、随伴の日本人車夫達に加勢して共にニコライを救った。
- アレクサンドラ(1870年 - 1891年) - ロシア皇帝アレクサンドル2世の息子パーヴェル大公と結婚。ラスプーチン暗殺者であるドミトリー大公の母
- ニコラオス(1872年 - 1938年)
- マリア(1876年 - 1940年) - ロシア大公ゲオルギー・ミハイロヴィチと結婚。のちペリクレス・ヨアニデスと再婚。
- オルガ(1881年) - 生後3ヶ月で夭折
- アンドレアス(1882年 - 1944年) - エディンバラ公フィリップの父
- クリストフォロス(1888年 - 1940年) - アメリカ人富豪メイ・リーズと死別後、ギーズ公女フランソワーズと再婚し、一人息子ミハイルがある。
妻との間ではドイツ語で、英語で教育されていた子供たちとは主に英語で会話した。
アンドレアス・ティス・エラザス・ケ・ザニアスは、ギリシャ王ゲオルギオス1世と王妃オルガの四男(第7子)。コンスタンティノス1世の弟。グリュックスブルク家の一員であり、ギリシャ王子およびデンマーク王子であった。イギリス女王エリザベス2世の王配エディンバラ公フィリップの父である。
1903年10月6日に、ドイツのダルムシュタットでルイス・オブ・バッテンバーグ(のちの初代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイス・マウントバッテン)の娘アリスと結婚し、後に1男4女をもうけた。
子女
- マルガリタ(1905年 - 1981年) - ホーエンローエ=ランゲンブルク侯ゴットフリートと結婚。
- セオドラ(1906年 - 1969年) - マクシミリアン・フォン・バーデンの長男ベルトルトと結婚。
- セシリア(1911年 - 1937年) - ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの長男ゲオルク・ドナトゥスと結婚。飛行機事故で他界。
- ソフィア(1914年 - 2001年) - ヘッセン=カッセル公子クリストフと結婚。のちハノーファー王子ゲオルク・ヴィルヘルムと再婚。
- フィリッポス(1921年 - ) - イギリス女王エリザベス2世と結婚。エディンバラ公。