上野は小雨が降っていた。駅前の広場ではある携帯電話会社のCMでも撮影しているのか、はためく幟の隙間から寒そうに身をすくめる半袖ミニの女の子たちの姿が見えた。
その日、スナフキンと媛子夫婦は、老舗洋食屋の「黒船亭」で昼食をとることになっている。約束の時間までにはまだ小一時間あった。
「俺はその前に行っておくところがある」
ぽつりと言ってスナフキンは一人すたすた歩き出した。媛子は杖を突きつき追いかけたが、視線を上げるともうスナフキンの姿が見えない。
慣れっこになっているとはいえ、知らない土地でひとことの断りなく行ってしまうスナフキンに媛子は雨の中しばらく立ちすくんでいた。
「また……なんだわ」
目の前を車が流れて行った。
上野駅の公園出口の前の道路は一歩通行だ。うっかり無知なタクシーに乗り込もうものなら目と鼻の先の西洋美術館までぐるりと回って法外な要求をされてしまう。2年前に来たときがそうだった。
あの時は一人で上京した。だからどんな目にあっても気を張り詰め、悲しく思うゆとりなどなかったのだ。
だけど今回はスナフキンと来ているだけについつい頼る気持ちが起きてしまい、置き去りにされると身も世もなく悲しくなりかけている。
夫婦だからといって寄りかかったりしたら、振り払われて後で失望する。悲しいのは自分自身なのだから。
落ち込んでいてもどうなるものでもない。媛子は右に見える文化会館めざし歩き始めた。あそこなら座る場所がありそうだ。そこでどうするか考えよう。
自分は一人でいるときが強いのだと言い聞かせる。
 
涙を呑み込めば呑み込むほど感情は乾いてくる。
 
会館は閑散としていたが、ゴージャスで品があった。雨宿りの人たちが数人いた。
媛子は、自販機の抹茶ラテを買って真紅のソファーに座った。少しずつ飲むうちに身体があたたまってくる。会館の入り口に花屋があるのにも気づき、小さな花束を買った。白にオレンジの筋の入った百合が、小花なのに強く香る。取り巻く霞草が花嫁のベールのようだ。
霞草は、媛子にいつも結婚式を思い出させる。美容師さんが髪に白い霞草をあしらってくれて、それがとてもうれしかったっけ。あの頃は私も元気いっぱいだった。
でも、今でもこうして上京できるほどの体力も気力も満ちている。まだ旅は始まったばかりだし、なつかしい魔女たちにもうすぐ会えるのだから。
会館の隣の売店でチョコレートと黒猫のメモ帳を買った。飼いネコプーシャへのおみやげ。
「黒船亭はすぐ近くでしょうか?」
「はい、ここからすぐですよ。歩いて10分くらいです」
売店のレジの女性は店の奥から上野の地図を出してきてサインペンで黒船亭までの道を説明しながら引いてくれた。
「ありがとうございました。行ってみます」
「あいにくの雨ですね」
「そうですね。せっかく愛媛から来たんですけど。寒いですね」
「まあ、愛媛。私もなんですよ。どちらですか?」
「香川寄りです」
「私は島なんですよ。今治沖の」
 
 
 
 
 
「夫婦って幻滅と恋愛の繰り返し」