2026.1.10 母が他界いたしました
(2017.2.5 イギリス旅行にて)2026.1.10 1時48分 他界直接死因びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫………2024.10.16 手術 2025.2 〜9 毎週メドック月1 〜2東海病院10.27 がんセンター11.23 骨折によりがんセンター搬送12.18小牧市民病院緩和ケア病棟………母が1/10未明に他界いたしました。88才でした。忘備録として残しておきます2023年秋のある日の朝、母から電話「昨夜から何度か吐いたんで、クリニックに行ってくるわ」次の電話は「なんか大きい病院(東海病院)で見てもらって、って紹介状貰ったんで一緒に行ってくれる?」その場で検査してそのまま入院腸閉塞起こしていて、点滴からの薬で散れば切らなくてもよかったんだけど結局手術。ひと月ほど入院。この年の春に母と北海道ツアーに行ったとき、車酔いした事のない母が珍しくバスに酔ったのがきっかけで、結局旅行中食欲がなかった事があった。後から思えば、すでに何か兆候だったのかもしれない。翌2024年10月、再び吐いてまた東海病院に入院。今回は、かなり大きな腫瘍が小腸を圧迫していて、9時間近い手術。一応取れるだけは取りました、という説明。これが悪性腫瘍だった。ひと月半の入院中に、おしもの辺りにでき物ができ、これが皮膚がんだった。退院して半月後、名大附属病院で切除。これも患部はキレイに取った、という事母は、がん治療は一切しない、ただ、痛みの緩和だけはして欲しい、と一貫して言っていたため、担当の先生にせめて少しでも進行を抑えられれば、と温熱療法を勧められて、年が明け2025年より毎週、ハイパーサーミアを受けにクリニック通った。殆ど私が送迎。「これはいつまで通うんだろうねぇ、毎週あんたの休みの日に、悪いねぇ。」とは言うものの、タクシーで通うのは億劫だったらしく、私が連れていけない日は、キャンセルする有り様だった。その間、月イチくらいで、東海病院へ検査と薬を貰いに通う。夏前くらいまではハイパーサーミアが効いていたのか、あまり腫瘍も変化がなかったんだけど、だんだん進行が早くなり、9月辺りから左耳の下のリンパが腫れてきて、身体のあちこちにも塊が見られるように。がんがリンパに入ってしまい、愛知県がんセンターに転院する事に。10/27、がんセンターでの初診抗がん剤をする場合のメリット、デメリット。治療をしない場合のそれ。いろいろとしっかり時間をかけて、説明を受け、今後どうしていくか、次回の診察までに家族で相談することに。(介護保険の認定ランクを上げる手続きと、緩和ケア病棟のある病院の選択はこの日に勧められていた)いろいろ話し合って、母もかなり気持ちが揺れながら、結局当初から言っていたように、治療はしない、痛みの緩和だけお願いしたい、と11/17の診察で先生に告げた。この日、追加の検査結果が出ていて、病名も確定(びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫)、この頃、腰が痛いと言っていたので、鎮痛薬の処方で様子を見ていきましょう、リンパ腫はいつどこに出るかわからないので、何かあったら入院対応もできるので、いつでも連絡してください、と。(この一言が後にとても助かった)11/22午後、レッスン中に母から電話。「右腕が痛くて動かせないから、ちょっと来てくれない?」それ程でもないと思ったので、空き時間に行くわ、と返事。暫くして見に行くと、母の知人で介護のお仕事されているMさんが来てくれていて、わたしのレッスンが終わる時間までいてくださる事に。鎮痛薬は飲んでもあまり効かないようで、その日は着替えも出来ず、就寝。明日朝来るね、と帰宅。翌朝、「起きてる?」と8時前に訪ねると、キッチン横の廊下で動けなくなっていた。トイレに行こうとベッドからそこまでで力尽きたらしい。介護の知識が全くない私では、なんとか冷蔵庫にもたれさせることしかできず、どうしよう?と途方に暮れていたところに、Mさんから電話。すぐ行きます!と駆けつけてくれて。その間、弟にも電話。母の方はMさんにお任せして、がんセンターに電話。日曜だったので担当の先生は居ないけど、入院可能ということで連れて行くことに。行ってみると偶然、担当のH先生が用事で病院に来ていらして!ただ詳しい検査やレントゲンは、日祝(23、24と連休だった)は技師がいないので、出来ず、火曜になります、と。そして、2日後のレントゲン結果、肩と腕の間がポッキリ折れておまけにずれていた。レントゲン見るだけでこれは相当痛いな、と安易に想像がついた。急だったので、オペ室の空きがなく、1週間後に手術になった。12/2の手術日、この日は小牧市民病院緩和ケアセンターに、診察面談の予約日で、本人は行けないけど家族だけでも大丈夫、ということで、そちらは弟が、わたしは母の付き添いに。(がんセンターからは、キャンセルせず、行っておいてください、と言われていた。これもさすがの指示だった)手術は人工関節を入れ、ボルトで腕の骨とつなぐもの。思ったより早く終わり、1週間くらいでリハビリします、と。右利きの母は、自分で食べられない、と看護師さんに食べさせて貰っていたが、リハビリの始まる頃にまた腸閉塞で戻してしまい、そこからは点滴で結局最後まで、食べ物を口にすることは出来なかった。緩和ケアセンターの方は、幸い予約ができていたので、翌週になり、先生が動かせるうちに転院できれば、と問い合わせてくれたところ、こちらも空きがある(ただし部屋代が有料のところ。無料の部屋はやはり、なかなか空かないらしい)と、12/18に転院。私たちは、小牧まで通う日が続くことになった。がんセンターは家から車で10分かからないので、隙間時間にサッと行き来できたけど(なので毎日行っていた)、小牧は片道40分。最初は遠いなぁ、と思って運転してたけど、だんだん慣れていった。転院したころは、母もまだしっかり喋っていたし、肩と腰の痛みはあり、鎮痛薬を入れてもらっていた。緩和ケア病棟は24時間体制で、看護師さんは3交代、週イチで入浴もあり、フットケアもある。臨床心理士さんも毎朝来ていて、痛みと辛さができるだけないように、薬の調整や身体のケアを細かく丁寧に対応してくれた。家族も24時間病室に入る事ができ、泊まることもできた。12/15に息子のところに赤ちゃんが産まれていて、この天使が母の命を随分と助けてくれていた息子がひ孫の写真や動画を送ってくれて、それを見せると母の表情は一変する。スマホの画面のひ孫を指で撫ぜながら「かわいいねぇ、かわいいねぇ」息子が沐浴させてる動画を見ながら「おお、上手上手」と話しかける。日に日に弱っていきながらも、ひ孫の写真には満面の笑顔を見せる母もう一つ、母が喜んでくれていたのが、エヴァ・ゲヴォルギアンさんの演奏動画。スタジオでのコンサートの動画を聴かせると、ピアノを弾いているかのように指を動かしていた(母はピアノ弾けません)年末年始を乗り越えて、1/2の88才の誕生日も迎えるころには、寝ている時間がながくなり、声も殆ど出なくなり、しきりと口が渇くから湿らせて、と言っていたのも減っていった鼻から胃に管を入れていた間は、固形物以外は口にしてもよかったので、お味噌汁(昆布と煮干しで出汁を取った)を2度、アイスクリームをほんの少しを4口。でも、その後、寝てる間に自分で管を抜いてしまったため(それも2度も)お水も飲めなくなった。声が出にくくなると、看護師さんと、手話のように手を使って意思表示をしていた。OKマークを作ったり、拍手したり、バイバイと手を振ったり。がんセンターにいた時に一度、緩和ケアにいた時に一度、せん妄が出て変な事を言い出した事以外は、ほんとにいつも穏やかで、感謝の言葉をいつも口にし、相手を気遣い、口ぐせのように「ありがとうありがとう」と言っていた。母が生きているうちに、後悔のないように、片道40分の運転を毎日続けた。調子のいい日、悪い日、時間帯によっても違っていたけど、確実に「その日」は近くなっていった。1月になった頃から、母がとても気にしていた左耳下の腫れがどんどん小さくなっていき、ほぼない状態になっていた。これは担当のY先生も初めてのケース、と驚かれていた(実のところは、がんは寄生しているので、栄養がないと小さくなっていくらしい)1/8の昼間に行った時に、先生ががんは小さくなってきているけど、反比例して、かなり呼吸を頑張っているのと、片方の肺に半分以上水が溜まっているので、そちらが心配と(呼吸器を着けても母は取ってしまっていた)その日の夜、弟と電話で、がんが無くなったら、もしかして回復するかも?なんて、すこし希望的な話しをしていた。1/9、昼間に行ったときは寝ていて声をかけても起きなかった。呼吸も頑張ってしている感じ。ただ血圧が80ある、という事だったので、また夜に来るね、とレッスンに戻った帰り道、ふと、父の命日って1月10日だっけ?11日だっけ?と気になった。亡くなったあとに着せるご自身の服を一応持ってきてください、と言われていたので、実家に寄り、服を選び、父の位牌を確認すると、やはり10日。レッスン終わり、21:30頃到着。服だけ置いてすぐに帰るつもりでいた先に来ていた弟と、看護師さん2人が病室の前の廊下で何やら話している血圧がかなり下がっているので、今日お泊まりになりますか?とその時、「父の命日が明日なんです。」弟も「そうだ、1/10だ」と。看護師さんたちがとても驚いていた。わたしは最低限の泊まる用意はしていたので、そのまま残り、手ぶらで来ていた弟は、一旦支度をしに家に帰ったその間、わたしは母にたくさんのありがとうを伝えた。頑張って生きていくから安心してね。少し母は涙ぐんでくれた。23時ごろから、2人で病室でいろんな思い出話しをしながら様子を見ていた看護師さんは、1時間ごとに様子を見に来てくれる。「心電図付けてないから、どうやって分かるんです?」「その瞬間はやはりわからないですが、だんだん呼吸の感覚が延びて、時々息が止まったりしてきます。」0:30頃見に来てくれた時に、ベッドの手すりを外してくれて、枕元近くにいられるようにしてくれた。ずっと母の手をさすり、時々話しかける。そして、1時半ごろ、とてもとても静かに息が止まった。ナースコールをして、看護師さんが脈と瞳孔のチェック、夜中だったので、担当のY先生はおらず、病院の方の当直の先生を呼んで、再び脈と瞳孔のチェックをして、1:48 死亡宣告母が48年間想い続けた父が、迎えに来てくれた瞬間だったかもしれない写真とはいえひ孫の顔を見る事ができお正月、誕生日も迎える事ができ、最後は望み通り、痛みも苦しみもなく、そして、子ども2人ともに看取られて父と同じ日に旅立っていった大団円!あっぱれ!お母さん!!普段なら10日に通夜、11日葬儀なんだけど、葬儀場の都合で11日通夜、12日葬儀になった通夜か葬儀の時に、わたしは母を生演奏で送ってあげたかったので、チェリストで友人のHちゃんにタイミングが合えば、お願いできる?という話しをしていて、Hちゃんも快諾してくれていた。だけど東京に戻っていてタイミングが合わず。前日だったのでダメ元でやはりチェリストでスタジオで講師をしてくれているYさんにメールをする。時間調整できれば、お通夜なら行けます!と快く受けてくれた。お坊さんを呼ばずだったので、お経の代わりの3〜5分の予定が、お焼香の間もBGMとして演奏してくれて、本当に本当に感謝!暖かいチェロの響きが斎場を満たしました。お式が終わり、友梨さんにお礼を言ったとたん、初めて涙が溢れてきて。Yさんがそっとハグしてくれた。11日の夜は雪が舞っていて、12日朝少し積っていた実は、なんと父の葬儀の日も、雪が舞っていたのだったなんてよく出来たドラマのようなロマンティックな夫婦なんだろう!葬儀の時は、ピアノが好きだった母にピアノ曲をチョイス。葬儀の間中、流して貰った。そしてこれもなんてタイミングなんだろう!お焼香がシューマンの「献呈」で終わったのだバタバタといろんな事が終わっていき家に帰る途中の車のなかで、ふっと「ああ、もうお母さんから電話はかかってこないんだな」ワッと寂しさが降ってきた今はまだ役所関係とか、実家の片付けとか、お墓のこととかでウロウロバタバタしてるけど、一段落ついたら思い出して寂しく思う瞬間が増えるんだろうなぁお母さん、ずっとありがとうこれからはお父さんと一緒に見守っていてください65歳から長年の夢だった、織りを始めた母珍しくバスに酔った時の北海道旅行2020.2 チェルキークルムロフにてこの後世界中がコロナ禍となり、母とは最後の海外旅行になったどこに行ってもそんなに感動しない、と言っていた母が、唯一、いいねぇ!と言っていた街