歯技同人誌「鱓」第12号(平成6年8月発行)尾上隆夫「評論家」より。著者は開業歯科技工士で、戦中派。昭和56年度から平成元年度まで日本歯科技工士会の副会長を務めていた。
『昭和五十年頃、歯科問題が社会の批判をうけマスコミの俎上にのせられ、世間を騒がせた事があったが、その時、医事評論家と名乗って一部のマスコミに登場した一人物がいた。それは筆者がよく知っている人で、無資格診療で何度か検挙された札つきの人物であった。どういうルートで引っ張りだされたのか、或いは自ら売り込んで登場したのか定かではないが、全く唖然とさせられたものである』
「無資格診療で何度か検挙された札つきの人物」――医療行為を行っていた歯科技工士(歯科医師法違反)と推察されるが、医事評論家として「歯科問題」をどう評論したのか気になる。
この時代の「歯科問題」とは、恐らく差額徴収問題だろう。差額徴収制度とは保険で定められた医療費以外に、材料代や技術料を徴収できる制度である。いわば、財政的に妥当な点数設定ができないことへの穴埋めだ。歯科に導入されたのは、歯科技工法制定と同じ1955年。1970年代には、歯科における同制度の乱用が、社会問題となった。
「四日間に苦情相談が九九七件あった。診療拒否が五七件で子供もや老人、障害者に多く、特に子供の診療拒否が多く、タライ回しされた。差額徴収が高いという苦情が三七〇件あり、治療が終わってから何十万円も請求された。医療費控除のために領収書を請求してもなかなか貰えない。六〇万円の領収書を貰うのに六五万円請求された例もある。保険で診て欲しいというと三ヶ月先だといわれ、家に帰ってから三〇万円ぐらいの予算で治療して欲しいというと、ではすぐにきなさい、ということだった」
(「戦後開業医運動の歴史 1945~1995」より、1975年6月の衆議院社会労働委員会における伊吹和子・大阪消費者友の会会長発言要約)
「当時の新聞には歯科医療に対する不満や苦情が次々に投書され、社会面どころか社説にまで取り上げられていたし、「歯医者たたき」の特集を組む週刊誌も少なくはなかった」
「「保険では粗末なものしか作れない。よい治療は高くて当たり前」というセリフは、現在でも生き残っているようだが、当時はそれが露骨かつ大々的に行われていたのである」
(月刊保団連2013年12月号、笠原浩「国民とともに歯科保険医療の拡充・改善運動を」より)
ちなみに、この差額徴収が社会問題化したころ、すでに医科では高価な薬剤や内視鏡手術、CTなどの新技術も保険収載されていた。医科でも差額徴収制度は認められていたのだが、使う必要がほぼなかったのである。当時の新聞や有識者もこの点――「歯科の異常な低点数」を認め、差額徴収制度を廃止するなら歯科診療報酬点数の引き上げは必至との見方も示している。
「現在の診療報酬では経営が成り立たないことは、いろいろ取材して明らかだ。たまたま補綴に差額徴収が認められている。これに悪乗りして次第にエスカレートしたと思う。その結果、極端な場合一○○万円、東京の都心あたりでは総義歯一対で一万ドル相場、三〇〇万円も珍しくない。歯科医療の需給のアンバランスも混乱の一つの原因にある。歯科医師不足と歯科大学における医の倫理を含む医学概論など教育上の問題、教員と学生の質の低下、患者側の健康に対する自覚の欠如、医療保険に対する意識の問題もある」
「「戦後開業医運動の歴史 1945~1995」、1975年6月の衆議院社会労働委員会における大熊房太郎発言要約)
上記の大熊房太郎氏の指摘は的確で、さすがは医事評論家である。「現在の診療報酬では経営が成り立たない」と多くの人が認めたこの時期は、保険歯科診療を改善するチャンスでもあったのだが、しかし、日歯はそうはしなかった。日歯はあくまで差額徴収制度に固執し、日本医師会からも「社会保険の根幹に触れる社会保険制度の破壊活動」「まるで自由診療の一部負担を社会保険がやっている」と非難される始末(1976年2月25日の中医協、武見太郎・日医会長の声明)。武見のこの声明は歯科医療の矛盾を見事に指摘しているのだが、この言葉を正面から受け止めることも日歯はしなかった。結局、差額徴収制度は1976年に一切が廃止され、1978年に一部――前歯部鋳造歯冠修復と継続歯についての貴金属使用のみの材料差額が復活したが、「歯科の異常な低点数」はまったく解決されず、委託技工料問題へとつながっていくわけである。
閑話休題。
「無資格診療で何度か検挙された札つきの人物」も、歯科医療の矛盾が生みだしたのかもしれない。当時の社会状況や患者ニーズが彼の存在を要求し、彼は見事にそれに応えていた「名歯科医師」だったのかも。ぜひ、その意見を聞いてみたかったと思う次第である。
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