昼間は仕事で。

プロ野球ニュースで太平洋クラブライオンズの頃のユニフォームを着たライオンズの選手達。

このユニフォームはまだ野球を知らない頃。帽子は見覚えある。

恐らく、野球を初めてしたのは小学二年。
クラスの友達に誘われ。バットの握りは、逆に握ってた。
メンバーの中の友達の一人が左投げでその子のグラブ借りたので左で投げていた。帽子の記憶はその頃のものたろう。

グラブを買って貰って野球に関心持ったのは小学三年。
太平洋クラブライオンズの最終年。
この時のユニフォームは、赤紫っぽい色のユニフォーム。
平和台球場で土井選手が巻き込むようにして打ってカーンという乾いた音が響きレフトスタンドにホームランを打ったのを覚えている。

小学四年の時にクラウンライターライオンズに変わり。

背番号21のシャツを毎日着ていたような。

そして小学五年のシーズン終了してライオンズが福岡を去った。

福岡のニュースでは、西鉄ライオンズの頃からの映像が流れ、「太平洋、クラウンと名前が変わる。その度に俺たちは、戸惑うばかり。返せ、返せライオンズを返せ」と言う歌が流れていた。

身売りは経験しててもライオンズが福岡を去るなんて小学生なので考えてもなくて。

それから埼玉に西武ライオンズが誕生。

でも、福岡で試合してもビジターでしか来てくれないのは寂しかった。

福岡ダイエーホークスが誕生。

初めこそホークスファンとライオンズファンと二分していた観客も。

大半がホークスファンに。

それでも九州はライオンズと思い。

九州でライオンズファンなんてと周りにはかなり言われたが。

ライオンズが九州を去ったのではなくてファンがライオンズを守れなかったのだと思う。

今では考えられないが、観衆50名とかの日もあった。
それでも当時前後期制で上位争いしてた時は観衆はかなり増えかなり盛り上がった。最後は失速したが。

みんなライオンズは福岡にずっといると思っていたんだと思います。

でも、宮崎の南郷キャンプでライオンズのホームのユニフォーム見た時は嬉しかった。

伊東監督の時にオープン戦でしたが、熊本でライオンズがホームチームとして試合してくれた時はとても嬉しかった。

涌井投手がルーキーで先発。ホークスに勝利。

ライオンズこそ九州の盟主なんて一人思った。

昔のユニフォーム姿見るだけでタイムスリップする。
小学三年から今までライオンズとはずっと一緒だった。

パリーグのお荷物球団と言われ弱かった。
でも、憧れのチームで選手達だった。

初めてライオンズのレプリカユニフォームに袖を通した時は。

イチロー選手がメジャーに入団した時のように。

ジャーンと鏡に映る姿を見て。

一般のおじさんも天才打者も憧れの前では同じだというのが面白い。