未来ビジネスを読む (ペーパーバックス)/浜田 和幸
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Chapter 1 Futurology in Japan 日本人と未来学


未来から拒絶される日本人的感性


未来への関心interestは人類共通のものである。
はたして未来future がどうなるか?
そのなかで、自分がどう位置づけられるのか?


個人、組.織、国家を問わず、未来をどこまで読み取ることができるかが、その行動の成否successorfailureを決する。


とくに、現代のような人類史上かつてなかったスピードでグローバル化が進む時代には、ビジネスの成否、個人の生き方まで、 「未来予測」力futureprediction powerに左右されるといっても過言ではない。


未来予測に関しては、 「四書五経」の『易経』に見られるような古典的な未来観測もあれば、欧米のシンクタンクthinktankが得意とするシナリオ、あるいはアメリカ議会の技術評価局OfficeofTechnology Assessment (OTA)が得意とするコンピュータ・シミュレーションな ど、多種多様な技法methodが存在する。

人間の内面や自然界との関係から未来を読むホ-リスティックholistic (全人的)な試みもあれば、各種データの丹念な積み上げに基づく科学的試みscientific approachもある。


もちろん、日本でも、官民一体となって長期的な産業発展や技術開発Iong-term industrial and technological developmentに関する予測がなされてきた。


しかし、いくら統計数字を積み重ねても、それだけでは科学や自然界(人間もその一部)の地球規模global-scale での展開を総合的に捉える視点viewpointは生まれてこない。


ましてや、経済数値に関する限り、日本の統計データはきわめて不透明uncertainで、窓意的arbitraryなものが多すぎる。


また、少子化Iower fertilityや人口減depopulationによる年金崩壊collapse of the pensionsystemの事実はとうの昔に予測できた「確実な未来」であったにもかかわらず、この国では対策を講じることさえしてこなかった。


つまり、日本では「未来学」 futurologyはあまり機能せず、機能していたとすれば、民間技術の発展に関することなどごく一部であったといえよう。


これでは、世界規模での大きな変革が起こっているこの時代に、国家nationも企業businessも危機的状況に追い込まれるのは無理もない。


すでに、バブル崩壊から十数年が経過し、 「失われた10年」 "A LostDecade"も15年になろうというのに、なぜ、日本は世界のメガ・トレンドに立ち遅れてしまったのだろうか?


もちろん、この国には世界からあふれんばかりの情報が流れ込んでいる。

しかし、それを基に効果的な決定を下すための情報の取捨選択willofchoiceが、実はきちんとなされてきたかどうか。


これは、長い間、戦後の奇跡的発展miracle developmentの幻想に囚われたり、また、日本人の伝統traditionに根ざす独特の「自然の流れに身をまかす」といった感受性が災いしていたかもしれない。


われわれは、明るい未来は歓迎しても、一転して暗い未来となると、それが確実に予想される未来であっても、想像するのを拒否してしまいがちである。


それは、 「不吉なことは口にしてはいけない」という独特の感性であって、そのた釧こ問題はいつも先送りpostponeされてしまうのである。


あの太平洋戦争the Pacific Warのときにも敗戦が濃厚になったにもかかわらず、誰もそれを言い出せず、決定的な破局catastropheを迎えてしまった


1990年のバブル崩壊collapseofthebubble economy にしても、同じことがあてはまる。


実際にはバブル崩壊の予兆は注意していれば明らかになりつつあったが、その直前まで、ほとんどの人々はそれが起こるなどとは信じず、また口にしなかった。


例えば、 1987年あたりから、 『バブルは崩壊する』とか『日本経済はおかしくなる』といったタイトルの警告本も出版されてはいた。


ソニーがコロンビア映画を買収し、三菱地所がロックフェラーセンタービルを買収したりした1989年は、バブル経済の末期症状terminal symptomsであった。


ところが、日本のXデーを目前に当の経済人たちも、 「日本の円パワーの象徴」とばかりに悦に入っていたのである。


「未来学」というと、 1960年代末から1980年代にかけて、日本でも一時的にもてはやされたことがあるn 


しかし、当時も今も、日本人が「未来学」からイメージするのは、とらえどころのない経済、社会予測の集合体といった、極めて漠然としたものでしかない。


第一、日本の大学でも、社会人向けのビジネス講座でも、そんな名称の講義は行われていないo


それに、 「未来予測」などといっても、最も身近な国内総生産(GDP)成長率など経済予測economic forecastingですら、ことごとくはずれてしまうという現実がある.


しかし、これは、 「未来学」の真のエッセンスを知らないからに過ぎない。


予測することによって未来は変わる。


これを未来予測のパラドックスという。


ヒトや動物の行動を研究する際の常識である。


つまり、観察されたり、予測の対象になっていることに気づくと、本来とは別の行動をとってしまうことは多くなるoそれが未来予測を難しい作業にしている面も否定できない。


とはいえ、われわれが最も必要としているのは、経済政策economicpolicyや政治的変化political changeがもたらす個人や個別企業への影響である。


事態が改善されればよし、そして、バブル崩壊の前兆を見逃すような愚は繰り返さないノウハウを身につけることが肝要なのである。


1990年3月、当時の大蔵省は不動産融資に対する総量規制を通達。


これでバブルが弾けた。


そして、 1991年1月の湾岸戦争thc GulfWarの勃発。


これこそ日本のバブル経済破綻の一撃となった。


しかもそれをきっかけに、日本長期信用銀行はじめ日本の金融機関が相次いでハタハタと破綻していく。


その背景にはアメリカのしたたかな金融情報戦略が隠されていた。


日本が「円パワー」を過信しているスキに、アメリカは情報という未来兵器future weaponで自国の強化を図る道を選んだのである


今や日本の金融機関の大半は、アメリカを主体とする外資foreign capitalsに生殺与奪権を起られるようになってしまった。


目本にとっては「第三の敗戦」 theThirdDefeatといえよう。


しかし、気づいたときが再生、未来への飛躍のチャンスなのである。


今こそ、アメリカの金融情報戦略のベースにある未来研究の実体を知るべきなのである。