キリストの棺 世界を震撼させた新発見の全貌/シンハ・ヤコボビッチ/チャールズ・ペルグリーノ
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aの土壌がテラ・ロッサに類似していることを示す、赤っぽいパティナのある墓だ。
墓に流れ込んだテラ・ロッサにほんのわずかな違いでも認められれば、
「パティナの指紋照合」はいけると考えて間違いないだろう。
                                         チャーリーより

 イスラエルで、シモン・ギブソンがシンパの同僚フエリクス・ゴルベフと協力し、パティナの指紋照合用の広範な標本ベースを作成した。
こちらの要請どおり、標本の大部分は無作為に抽出されていた。

ただし今回の分析でとくに重点的に見たいのは、赤みがかった、もしくは赤黄色をしたパティナだった。
タルビオットの墓の骨棺のそれに似た、比較的珍しいテラ・ロッサ土壌の下か、その近辺に作られた納骨洞に共通して見られるものだ。
このあたりで標準的なのは、白、黄色、灰色のパティナだ。

赤みがかったパティナはおそらく、鉄分が多いなどテラ・ロッサに似た特徴を見せるだろう。
これで、各墓の化学的性質が固有のものかどうかがわかるはずだ。

 2006年7月31日、最初の分析を実施する。

イスラエルで採取された骨相の標本が、サフォーク郡科学捜査研究所のEPMAにかけられた。
結果的には、どの標本もタルビオットの墓の壁やその中の骨相、およびヤコブの骨相とは一致しなかった。
顕微鏡で見ただけでは
見分けがつかない標本でも、元素の組成にははっきりと相違点があった。
また、ここにも合成洗剤の痕跡が見られるものがあった。
 結論-エルサレム′で出土した他の骨相から採取された多数のパティナ標本を参照しても、タルビオットの墓の骨棺のパティナと分析結果が一致するのは「ヤコブ」の骨相だけであった。
 こうして分析を進めているあいだも、イスラエルの収集家オデド・ゴランはすでに1年以上も軟禁中で、「ヤコブ」の骨相の銘刻を偽造した罪で刑事裁判を控えていた。

警察はlAAの調査をもとに偽造と断定していた。
これに対して、サフォーク郡科学捜査研究所でぼくとボブが行った調査では、「ヤコブ」のパティナも自然に形成されたものであり、化学的性質もタルビオツトの墓から出土した他の骨相と同じという結果が出ていた。
 同じころ、地質学と古微生物学の世界的権威ヴオルフガング・クルムパインも独自に調査を行い、「ヨセフの息子ヤコブ、イエスの弟」の「ヤコブ」と「イエスの弟」の文字の内側から採取したパティナ標本を分析し、以下のような結論を出していたCVヤコブのパティナがいかなる状況下で形成されたにせよ、「この骨棺の銘刻内部から微量採取されたパティナの化学的性質の形成には確実に、少なくとも50年から100年(おそらくは数世紀)は必要だと言える」。 ニューヨークでの鑑識結果とクルムパイン教授による 「ヨセフの息子ヤコブ」 のパティナの分析を総合すれば、いわゆる 「合理的に疑いのない」証拠が得られたと言える。
「ヨセフの息子ヤコブ、イエスの弟」 の骨相と 「ヨセフの息子イエス」 の骨相は2000年近く、同じ墓で眠っていたと考えていいのだ。
 統計学的に見れば、「ヨセフの息子ヤコブ」 の骨相がタルビオットの仲間に加わったことで、タルビオットの墓がナザレのイエスの墓であることは証明されたに等しい。
先に統計学の権威フォイアバージャーが言ったように、「ヤコブの骨相」がなければはるかに少なかった確率が、その存在によって30000分の1にまで高まるのだ。
わらでできた屍衣
 5月15日の晩もまた、サフォーク郡科学捜査研究所が脚光を浴びた。
犯罪学者クライド・ウェルズが調査チームに加わったのだ (彼もまた、この日に自分が調べた付着・堆積物が誰の墓のものかをまだ知らなかった)。
「マリアムネ」 の蓋は何年問も開いたままだったため、骨棺内には現代の衣服から出た合成繊維のちりなど、かなりの量の汚染物質があった。
現代の綿繊維も多く見られた。
要するに
倉庫内のほこりだ。
表面の堆積物の中に残る、酸化や鉱化、あるいは微生物の攻撃にさらされていない古代の繊維とは違う。
 こうした「明らかに現代のもの」を取り除くと、興味深い微粒子が現れた。
あまりに小さく微量なため、炭素14による年代測定法でもわからなかったのだが、古代のものであることは確かなようだ。
植物の繊維も含まれている。
かなり深いところまでカビに浸されているため黒く見えるが、もとは自かったのだろう。
繊維は、綿ではない。
綿にしては幅が広すぎる。
おそらく亜麻の一種のように思われる。
しかもパルプ状にした繊維と混ぜてつむぎ、安上がりに仕上げたものらしい。
チャーリーからシンパ、キヤメロンへ
 今日は 「マリアムネ」 の骨相に残っていた埋葬布らしきものの一部を見た。
かなり深いところまでカビにやられた微量の綿繊維も見つけた。
2枚日の布は違う素材のものだったらしい。
その繊維 (と、繁殖したカビ菌の根) は、鉱物パティナに薄く覆われていた。
要するに半化石化していたから、たぶん古代の物だろう。
 埋葬には2種類の布が使われたと思われる。
1つは亜麻で、紙のような繊維と混紡す

ることで、さらに安上がりで質素なものにされたものらしい。
マグダラのマリアの屍衣だったようだ。
                                        チャーリーより
 続いて、イエスの骨相からも繊維が見つかった。
この珍しい繊維の発見が持つ重要性は、すぐには理解できなかった。
分析を行ったのは2006年5月15R、月曜の午後である。
その日、ぼくの頭の回転は不思議なほど鈍かったらしい。
目にしたものが心の中に深くしみ入り、無意識の奥底から浮かび上がってくるまでに何時間もかかった。
 イエスの骨相の堆積物に混じっていた繊維は、「マリアムネ」 の標本から抽出されたものよりもはるかに粗悪だった。
他の骨相と比較すると、テラ・ロッサにさらされた後の生物学的活動のレベルも低いようだ。
クライド・ウェルズには最初、この奇妙な繊維が何なのかわからなかった。
綿ではないし、亜麻でもない。
現在、世界のどこで使われている繊維とも違う。
わら系のものをパルプ状にし、それをつむいだ (もしくは押し固めた) ものらしい。
たぶん、当時でもとりわけ質素で安物の繊維だったのだろう。
クライドはまだ、この1世紀の骨相に誰の名が刻まれているのか知らなかったから、屍衣の一部だったかもしれないな、とあっさり答えを出した。
 それから数時間、この繊維についてじっくり考えてみることはなかった。
ひょっとしたら、その屍衣のほつれらしきものを、何ということもない古代の植物繊維のくずで、布の一部のように見えるだけ、イエスの埋葬とは何の関係もないものだという説明で永遠に葬り去ってしまったかもしれない。
「もしかしたら」という言葉と距離を置いていたのだ。
 午後7時頃、ニューヨークに着き、家に向かった。
うちで夕飯を食べよう。
テレビでも見よ,つ。
 バス停に向かう途中、顔なじみの説教師に出会った。
いつも街頭に立ち、ホームレスを相手にしている男だ。
彼はいつもと同じ決まり文句をぼくに投げかけてきた。
「どうだね、イエスは見つかったかい?」 ぼくは彼にうなずき、いつもと同じように答えた。
「いま探してるところさ」 それまでにも何度か、ブロードウェイやタイムズスクエア近くの街灯やネオンの下を、キャリングケースに入れたタルビオツトの墓の標本を持って歩いたことはあった。
でもこの晩に限って、ぼくはふと思った。
マンハッタンの歩道を歩いているこの人たちは誰も、世界一深い神秘のベールに包まれた (そして、たぶん世界一神聖な) 遺物が、すぐ目の前を通り過ぎていると言われても、まず信じないだろう。
そのDNAとイエスの聖骸布の一部かもしれない遺物がニューヨークに来ている。
この事実と比べたら、軍の重要機密事項なんて、それこそ常識と言えるほど広く知れ渡っている。
 1時間後、ただの繊維くずと思えていたものが実はとんでもなく重要なものであることに気づいた。
シンパは何度も、イエスの骨相はこれまでに目にしたどの骨相よりも簡素だと言っていた。
ぼくはかつて、簡素というよりも未完成なんじゃないかと指摘したことがある。
でも、シンパは即座に否定した。
いや、あれは間違いなく完成品だ。
蓋がぴったり閉まっていて、きっちり封印されていた。
だからIAAの倉庫に4半世紀も置かれていたのに、他の骨相に比べて大気中のほこりによる汚染が少ないんだ。
 最も簡素な骨相。
わらでできた屍衣。
 いちばん質素な骨相に、いちばん質素な屍衣にくるまれて埋葬された男。
 自分が涙もろいとは思いたくない。
でも突然、涙があふれてきた。
すべてがつながった。
いちばん質素な繊維と、「ヨセフの息子イエス」 の文字と十字のマーク以外に何の装飾もない、最も簡素な骨相。
そうだ、この質素さはイエスの生き様とその哲学について、ぼくが今までに読んできたものすべてと一致するではないか。
 もし80/503が本当にナザレのイエスの骨相なら、イエスも、彼を埋葬した人々も、その教えを最後まで実践したのだ。
 このとき初めて、ぼくらが集めてきた数々の証拠は単なる数字や化学記号ではなくなった。
このとき初めて、ぼくの目に聖書の教えは時空を突き抜けて人々に届くものに、考古学と真正面から衝突するものに映った。
このときまで、ぼくは何の疑いもなくふつうに想像していた。
きっとイエスの言葉は後に彼の年代記作者が創作したもので、実際に彼が口にしたものではないのだろうと。
 でも……ひょっとしたらイエスは実在し、聖書に残された言葉はすべて彼の、そして彼の弟子たちの口から出たものかもしれない。