すぐに英語と課題に取り掛かるべきなのだけれど、どうしても気が済まないので、書く。

本当に何も得られなかった数時間だった。いくら後悔してもしきれない。自分がしたことって、取り消せない。過去は変えられない。「過去が悪かった、だから今から頑張る」…という人、よくいるよね。受験で失敗したけれど、これからの人生で頑張れば大丈夫、みたいな。

正直、私はそういう考え方にものすごい違和感を感じるのだ。もちろん、受験は合格者=成績上位&できる人、ではない。一発勝負ゆえの「悪い奇跡」、合格確実な人が落ちる、なんてこともある。
けれど、大多数の不合格者は「今までの行いが悪かったから(合格に必要な行動をとってこなかったから)不合格だった」わけで。
まずは、自分の過去の行いを振り返ることが先なんじゃないの!?と思ってしまうのだ。私は。

そういう人に限って、自分の行きたかった学校に合格した人たちが遊んでいると、死体に群がるハエアナのような勢いで「腐敗している」だの、「地位とネームブランドに胡坐をかいている」と批判するのだ。身につけているものはどちらのほうが良いものなのか。「今の努力」がそういう人たちに勝っていたとしても、「人生でのトータルの努力」はどうなのか。そういうことを考えることすらしない。


成功は最悪の薬だ。本当に毒薬。気分を良くさせておいて、その人の足を引っ張っていくのだから。しかも、巧みに。本人が気付かないうちに。

私の能力が劣っていること、念願の~を充実したものにするにはしっかりとした武器を身につけることが必要で、そのために毎日しっかりと生きなくちゃいけないのに…何やってるんだ、私は。


とりあえず、後悔はここで終わりにしよう。前を向こう。足元だけを見よう。すぐ顔を上げる私は、未来を見る必要はない。未来との距離をわざわざ計算する必要もない。ただ、愚直に進んで行けば良いだけ。

さ。
今日のこと、今日の努力不足のせいでTOEICとかTOEFLで悪い点が出ても、私はその現実を引き受けなくちゃいけない。自分自身へのけじめとして。
自分の人生に責任を持とう。もっと自分を大切にしよう。

今日の私の誓いです。

では、勉強頑張りまーーーす♪♪♪
こんなにやることが多いとは…。

元々、私はキャパシティが大きいほうではない。だから、やるべきことが色々重なっていると焦ってしまう。そして、プレッシャーを感じる。一つ一つのことにじっくりと迅速に適切に対応するしかないというのに、それができないのだ。未来のことばかり考えてしまう。何をいつまでにすべきか…そのくだらない「計画」ばかりして…。

それが一円にもならないのは知っている。

難しいこと、複雑な状況にあるときほど、物事を単純化して考えなければいけないこと、やるべきことを一つに絞って「その問題のみ」に集中することが大切なのに…。


今日、本当にうれしいことがあった。望んでいたことが現実になった。未来が一歩開けた瞬間。一つの成功が次の成功に結び付く…そんなことを体験した日であった。
けれど…どうしてその喜びに浸って現実逃避してしまうのだろう。課題があるというのに…。

さらに、そのニュースを聞くまで私がしていたことは、ネットサーフィン@My university。おいおいおいおいおいおいおいおいおい…ありえないでしょう……。。。。

英単語がすべてだと思う。少なくとも今の私には。いくつ覚えられるか…それで大体の点数が決まってくるのだ。
課題があると、ついそちら優先になってしまう。だからこそ、普段からコンスタントに、空き時間を大切にしなければならないというのに。しかも、今日はたくさん時間があったというのに…。

今まで何度も言ってきた。「こういうことがもうないようにします」…。
それは、オセロの黒を白にするようなもので、何の進歩もない。だって、オセロはオセロのままなんだからさ。オセロじゃなくて、将棋の駒にならなくちゃいけないんだよね。

今ある時間を大切に。

改めて思った今日でした。

反省。
私は、老人と話すのが苦手だ。というか、嫌いだ。彼らの大半は(もちろん、そうでない人もいるが)つまらない事しか話さない。というか、「会話のキャッチボール」ができない人が多すぎる。

人間って、年齢が上がるにつれ話したがりになる生き物なのだと思う。同時に、寂しがり屋になる生き物だと思う。あくまで私の周りの人を見ていて思うことだけれど。

確かに、社会での居場所も退職前は中心に近かったものが隅のほうになり、昔動いた体や頭もだんだん動かなくなってゆく。雑誌や週刊誌は収入を得るために「老いることは進歩すること」とか「年をとってからの新たなスタート」とか都合のよいキャッチフレーズをガンガンつぶやくけれど、若者と老人、どちらが楽しいかといえば答えは明確なわけで。。欲求不満、イライラ…色々なマイナスの感情の処理をするのは大変。一人でするには大変すぎるから、その処理先を見つけたら喜んで寄ってゆく。

だから、話を聞いてもらえる人がいたら、その人の可能な限り聞いてもらおうとする。詐欺にもナントカ商法にも簡単に引っかかってしまう。もちろん、すべての老人のことを言っているわけではないですよ。本当に素晴らしい方々もたくさんいらっしゃいますから。。

彼らの話は常に一方的なのだ。相手に話すすきを与えない。相手の反応がどうであろうと、自分のペースで演説を続けてゆく。さらに、話に緩急がなく、常に一定のペースであり、感情表現も乏しいため、聞いていて楽しくないのだ。聞き手に与えるものは有益な情報や楽しい時間ではなく、苦痛のみ。
さらに、話す内容がつまらない。聞き手の感情や聞き手にも都合があるということをまるっきり無視して、自分の快感だけを求めている。「あのねぇ、私がいた地域がねぇ。●●の☆☆というところでねぇ。そしてね、☆☆には二本の▼▼があってねぇ…」という感じ。自分だけではなく、相手にも気分よく話を聞いてもらいたいのならば、自分の話したいことを全部話すのではなく、話したいことの中から相手が聞きたいと思うであろう内容を選んで(もしくはどうでもよいところを削ったり要約したりして)相手に伝えるものだと思うのだが、それがない。隅から隅まですべてを話す。まるで、部屋の中にあるすべてのごみを部屋の外に一つ一つ出してゆくように。。。

「会話」ではなく「演説」。「キャッチボール」ではなく「ゴミ捨て」。

悲しいかな、そういう人のもとからは、人はますます離れてゆく。与えるものなき人のもとには人は集まらない。何かがほしかったら、まず与えること…これは真理だと私は思う。

いろいろ事情があるのだろうが、数十年生きていてもまだ分からないのだろうか。それとも、年をとってそういうことがどうでも良くなったのか。


与えなくては、与えられない。

これは絶対に忘れないでおこう。