ちょうど
1年前ぐらいに書いた、
この記事。












この気づきは
ほんとうに大きかった。






いまでも
この気づきを基に、


何か予期せぬことや
すれ違いがあったとしても


そんな日々のさざ波を、
以前よりずーっと楽に
乗りこなせているじぶんが居る。









その気づきとは
どういうことかと言うと、







大切。

嫌い。

愛しい。

うっとうしい。

苦手。

イライラする。

面白い。

感謝してる。



などなど







だれかや何かに対する、
矛盾するわたしの気もちはいろいろ。








近ければ近い相手ほど、

また
大切であれば大切な相手ほど、





当然、接点も多いので
じつにさまざまな感情が湧いてくる。

 







いくら大切だからって、
四六時中ずーっと好きではいられない。




どれだけ愛していたって、
タイミングが悪くイライラすることもある。







  

ばらばらの、
それらひとつずつを認めること。









ムリにまとめたり
グループを作ったりせずに、


ひとつずつをそのまま認め、
ひとつずつをそのまま存在させてあげること。







(クラスでの、子どもの在り方みたい!)








それは、

【わたしのなかの母親像】や
【わたしのなかの子ども像】



はたまた
【わたしのなかの夫像】
というようなかたちを
一見、取ってるわけだけど






それらは
ただのフィルター。 
なのであって、


あくまで
借り物なのだ。








ほんとうは

 
母親、父親
子ども、パートナー、友人など


さまざまなフィルターを通して




 


じぶんの感情ひとつずつを、
ばらばらのまま認めること。








なんだか居心地がわるいような
所在なげな気もちにも、



そこにそのまま居ていいよ👌
それで大丈夫だよ👌




って
急かさずに
こころから言ってあげられること。









その作業は、
イコール



じぶん自身を認めること



そのものだった。












わたしの肉体は
ここにたしかにあって、
この手で触れられるけど



わたしの意識は
この手で捕まえようがない。








ばらばらの要素ひとつずつが
わたしの意識をかたちづくっているのなら、






その事実には
いい も わるい もなくて、





その要素ひとつずつが
わたしの意識のカケラなのだ。


と、認めるしかないのだと思う。










ココロの問題だから
なんだか見えづらく
ややこしくしちゃってるだけで、





身体だったら、
細胞のひとつずつにダメ出ししてる人、
身近にいないでしょ。笑








そのままのじぶんでいい。

と他人が言うのはカンタンだけど、



そんな心持ちには
なかなかなれないのも、また事実。







それなら、


そのままでいい。かどうかは
この際ひとまず置いといて、






そうである。

を認めることは

ものすごく楽になり、
生きやすくなる。







だって、
そうである。んだもの。笑
















今朝、風が強いなか
ドライブ中の景色をふと見ると、







草の上にこぼれ落ちた光が

ふいにやって来た風に踊って、

田畑を転がる
無数のキラキラの粒のようだった。













風や草を通してみると
キラキラの粒だけど、


 

キラキラの粒の
そのひとつずつが光なのであって、





風や草や田畑が
光を連れてくるわけじゃない。








それどころか


風や草や田畑は、
それだけでは永久に
光を連れてくることはできない。






風や草や田畑が
落ち葉や花や雲に変わっても、
それはきっとおなじこと。












わたしたちは、
強く強く吹いてくる風や
取りまく草ばかりをみてはいないかな。





まるで
それらが光の本体のように、
思ってしまってはいないかな。









風や草や、花や雲や
田畑があってもなくても。





絶えず姿を変えながら、




そこにはずっとずっと
わたしという光が、息づいている。








ばらばらの光の
一粒ずつに、
いい わるい がないように。







わたしの
ひとつずつのカケラもすべて、
ひとしく尊いわたしの粒なのだ。