子どものことじゃなく、




子どもとのことだけど、
わたしのことを書きます。





おとなになんて
まるでなれないまま、
わたしは子育てをしている。








子どもが生まれるまえは、
じぶんは根っから子ども好き。 


と、思っていた。



街中や電車で会う子どもに
いきなり話しかけられたり
アンパンマンビスケット渡されたり笑、


学生時代は地域の子どもと遊ぶ活動したり、
いまの仕事だって子どもと関わる仕事内容で。


親戚や友達に子どもが生まれると
ほんとうに可愛くて。





もちろん
わが子が生まれてからも
可愛くていとおしくて、仕方ない。




でも、いわゆる、

子ども好き。

ではないな、といまは思う。








じぶんの子どもに出会って
いや、
そのまえの出会うまでの過程でも、
かもしれない。





それまでの人生で培ってきたもの。
培ってきたと思ってきたものたちが、


それらによってかたちづくられてきた
“わたし”だと思ってたものたちが、


ぐらぐら、と揺さぶられ、
どんどん崩れていった。






中絶するというかたちで、
最初のじぶんの子どもに出会い、

(姿は見ていないけれど、
いのちの存在という意味で)     


その出会いも、
わたしをさまざまに変えてくれた。






けれど それ以上に、
生身の子どもとの出会いは


わたしを、
わたしの毎日を、
いまも大きく揺さぶりつづけている。




この人。


         



いちばん初めに
肉体をともなった子どもとして、
わたしのところへやって来たムスコ。





夫はともかく、

わたしのことを母に選んで
1番目にうまれてくるなんて、
勇者でしかない。






それだけで、
ムスコのことを尊敬している。







なのに、裏腹に
ムスコにはむしょーにイラつく場面が多い。

 



わたしの枠をぶっ壊しに来た
チャレンジャーだから。






感じたことをそのまま発し、


やりたいことに全力投球。


いのちを全開で燃やしつづける毎日。





―マルチタスク。
―バランス。
―普通。
―空気を読む。
―ちょうどいい。
―ほどほど。


なんて、
彼の辞書には載るはずがない表現たち。 







ムスメがうまれて、
ムスメとムスコ。


ふたりをいっぺんに育てるようになって、
よくわかったことがある。


じぶんの産んだ子どもに
好きと嫌い、愛情の差なんてないけれど、

仕事でかかわる子どもたちと同じように

合う合わないの相性や、
苦手さの度合いの違いは、
まちがいなくある。





1人目と2人目の育児慣れの違いや、
男女の差も、たしかにあるかもしれない。






ともかく わたしにとって

ムスメはとても育てやすく、
ムスコはとても扱いづらかった。



その感覚は、
現在進行形でつづいている。






でもそれは、
ムスコとムスメの


役割がちがうから。



と、思うようになった。





あくまで
わたしにとっての、役割。


(家庭での扱いや役割には差はないけれど)





わたしにとって
わたしの人生にとって、

ムスコが来てくれた意味
ムスメが来てくれた意味

が、それぞれちがうから。





ムスコは
わたしと得意不得意が真逆。

みせかけの既成のわたしを
ぶっ壊して、
枠を拡げに来てくれてる。

そんな役割だから。






ムスメは
わたしとすこし、似ている。

ブリ度はまったく勝ち目がないけど笑


わたしを手伝い、
家族を守りに来てくれている。
存在だけで愛されることを体現する。

そんな役割だから。









夫はムスコと似ていて、
ムスコとの相性はわたしよりずっといい。


と、わたしは感じているのだけど


きっと夫のなかにも
意識しようとも意識せずとも、

ムスコとムスメから
伝わることや受けとることには
おおきな違いがあったりするんだろうな。






相性がいい、わるい
とか

得意不得意が似ている、似ていない
とか


すべてどれも
善悪ではなくって


ただ、そう。


なだけ。



 





わたしと夫も
感性は似ているけれど、
得意不得意は真逆で。


 

似ていないからこそ、

わかりあえる部分や
おもしろがれるところ
ふかく愛しあえる可能性

が転がっている、と感じる。







どこかで書いたはずだけど、



夫の不完全さをみるたび、

その不完全さがなければ
わたしのだいすきな夫の部分も
きっとなくなってしまうのだろう。

と思う。




不完全さがかたちづくる
その人こそが、完璧なのだ。




不完全さが言いようもなくうつくしく、
不完全さがどうしようもなくいとおしい。




そう思える瞬間があるから、

わたしは おとなになれないままで
不完全なわたしと生きていられる。







おとなになれないままの
不完全なわたしたちだからこそ、


たいせつなだれかと
手をつないで生きていくんだろうな。