先週、帰宅した夫に
その日の業務連絡(子どものことetc.)を
していた時のこと。
「…なんか、怒ってる?」
と、夫。
矢継ぎ早に連絡事項を伝えるわたしに、
殺気をかんじたようす。笑
いや、よく気づいたなー
さすが夫。
と思いつつ、
「あなたには怒ってないよ。頭痛くて。」
その日は夫の帰宅時間も遅くて
子どもの寝かしつけや明日の準備と
バタバタしてたので、
その場では事実だけ答えました。

子どもたちの寝かしつけが終わって、
階下に降りてきた夫。
いつもどおり食器を片づけてくれて、
小学校のおたよりに目を通して。
そんな夫のしずかな背中に、
今度は気もちを話してみました。
「さっき、あなたには怒ってなかったけど、
たしかにわたし怒ってた。ごめん。
かなしいことがあったから、
かなしくて怒ってたの。」
と、わたし。
夫は振り返ってわたしをみて、
「そっか。」
とうなずきました。
ほんのすこし心配そうな顔で
わたしをもう一度みたので、
わたしがかなしかった出来事を話すなら
夫には聴いてくれる準備があるんだな、
とわかった。
でも、わたしは
「かなしかった。」
と、ことばに出来たこと、
夫がしずかに受けとめてくれたことで
ふっと肩の力が抜けて、すっきりして。
出来事そのものを話すのはもういいや、
という気分になっていたので、
それ以上は話さなかった。
夫はすこし間があって、
話さないわたしを待ってくれていたけど、
また自分のしていた作業に戻っていきました。
こういう場面で
過不足なく聴いてくれる夫には、
ほんとうに感謝です。
わたしはそのあと、
ひとりでしずかに
じぶんの「かなしかった」に共感して。
なかったことにせずに
じぶんがみとめてあげれば、
それだけで泡のように
怒りのふりをしたわだかまりが消えていく。
以前のわたしのように、
本音が もはやわからなくなって
迷子になった気もちをみつけるために
たくさん語るのがだいじなステージもあれば、
じぶんのなかに潜って
ことばにしていくことで、
多くを語らなくっても
じぶんが共感してあげればいい。
そういうステージにいまは居るのかな、
と思います。
ステージに優劣や善悪があるわけじゃなく、
そのときのじぶん自身に
ちょうど必要なことがちがうだけ。
だから、わたしは前ほど
夫に多くを聴いてほしがらなくなった。
過去の未消化な出来事たちが消化され、
堰を切ったように泣かないといけないような
ふたりでいるのにひとりの夜も、
もうなくなった。
でも、どんなステージに居ても、
気もちや感覚をことばでつかまえることは
ほんとうにだいじ。
怒りはもちろん
ストレートに怒りの場合もある。
じぶんのだいじなものや人、価値観を
否定されたり傷つけられたりしたら、
怒りがこみあげるのは自然なこと。
怒りをそのまま表現するのも、
時にはわるくない。
それでも
じぶんのなかに潜って
注意ぶかくみてあげたいのは、
“怒りの仮面”
のとき。
怒りの仮面は森田ゆりさんが
わかりやすい例えとしてよく用いている言葉。
その場合の怒りは
【二次的な感情】=仮面 であって、
かなしい、さびしい、みじめだ、等
【一次的な感情】が
ほんとうは仮面の下に隠れているのだよ、
ということ。
本音や感情迷子になってこじらせていると、
怒りの仮面の上にさらに
“笑顔の仮面”
を装着している場合もある。
何があっても、
ハハハと笑っているけど
めっちゃ無理してる、しんどいよね。
そぐわない仮面や役割の鎧を脱いで、
ひとりの人として
じぶんの気もちに共感してあげられること。
だれかから、外側から
どんなに共感を得ることよりも、
あなた わたし自身の共感が
何よりだいじなんだよね。
ね。