　温む陽気に誘われ、おきなぐさの花芽が一輪ふくらんだ。釣り鐘型した花が見られるのももうすぐだ。

　　　ごらんなさい。この花は黒じゅすででもこしらえた変わり型のコップのように見えますが、

　　　その黒いのはたとえばぶどう酒が黒く見えるのとおなじです。

　　　この花の下をしじゅういったりきたりするありにわたしはたずねます。

　　　「おまえはうずのしゅげはすきかい、きらいかい。」

　　　ありはかっぱつに答えます。

　　　「大すきです。だれだってあのひとをきらいなものはありません。」

　　　「けれどもあの花はまっ黒だよ。」

　　　「いいえ、黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるでもえあがってまっ赤なときもあります。」

　　　「はてな、おまえたちの目にはそんなぐあいに見えるのかい。」

　　　「いいえ、お日さまの光のふるときならだれだってまっ赤に見えるのだろうと思います。」

　　　「そうそう、もうわかったよ。おまえたちはいつでも花をすかして見るのだから。」

　　　　宮沢賢治『おきなぐさ』より抜粋

　昨年、おっしゃっていたのは翁草だったようにおもうのですが、

　先日、あの花屋さんにいったとき、奥の隅（入って一番奥の角の隅の下方）に隠れるように、小さなものが何株か

　置いてありました。

　普段あまり語らない秘密のようなものを酔いまかせついでに語ったのを友人が覚えていて、その苗をとある花屋で見つけたと知らせてくれた。きっと賢治について熱心に話したのだろうな。そのときを思い出せば気恥ずかしいが、やはり嬉しい。いそいそと花屋に出向けば、確かに奥まった片隅に翁草の小さな苗が10株ほど、売れ残りのように置かれていて、丁寧に見ていかなければ通り過ぎてしまいそうだった。

　黒じゅす色と思い込んでいたら、紫、赤、白色の翁草まである。翁と呼ばれるのは、花のあとの種のフワフワした白く長い毛が髭のようだからで、白色では何だか花期から翁を想像するので、白色は除け紫と赤色の苗だけを買った。好みもあるだろうかと思い、買ってはこなかったという彼の言葉の意味は、色の好き嫌いのことだったのだ。西洋翁草ではないかしら。希少な日本翁草が本当は欲しいのだけれど、植物を育てるのは下手だから、稀種には手をださないほうがよい、と思い直した。

　もしかしたら友人は、前から欲しいといっているミヤマオダマキを探しに花屋に立ち寄ったのだろうか。ミヤマオダマキと翁草は同じキンポウゲ科だから、おやっ、と小さな苗に目が留まったのかもしれない。それにしても酒席での小話をよく覚えていてくれたものだ。

　賢治の書いたもののなかでいちばん好きなのは、と訊かれれば「おきなぐさ」になる。すいぶん前に1度数株の翁草を植えていたが、数年ですべてが絶えてしまい、「土が合わなかったかね」と夫と会話したのを覚えている。ちょうどその頃に夫が大切に育てていたクマガイソウ（熊谷草）が、土壌が合わず絶えてしまったからだ。今回翁草について少し調べたら、5年ほどで親株は絶えるが、絮によって新たな命は紡がれるとあった。狭い庭ゆえおそらく天空に上がったおじいさんの髭（絮）は、屋根を飛びこえよそへ旅立ってしまったのだと思う。

　小さな三波石の前にピンク色濃淡2本の牡丹が植わっている。その2本の間に紫色の翁草を植えた。昔に植えたのと同じ場所で、そばにはありの巣があるが、我が家のありは忙しく行き交うだけで花にはまったく関心がない。赤色は蝋梅の下に植えた。

　『銀河鉄道の夜』で賢治と出会った。小学生半ばころの話で、父の書架に賢治集が一冊あった。父の父つまり私の祖父が花巻出身だったことに関係しているかもしれない。草野心平の賢治論や『遠野物語』、花巻地方の風土記なども並んでいた。どれも戦前に出されたもので旧字体でもちろん漢字にルビなども付されていなかったが、一番魅せられたのは、北国の年中行事を綴った風土記で、七夕には里芋の葉の上に溜まった朝露を硯に入れ願い事を書く、と知り近所に里芋がないのが残念で、それをお祖父さんにうちあけたら、翌日に薄紙で作ったたくさんのこよりをくれ、これで短冊を結ぶように教えられた。強く印象を残すこともない寡黙な人で、ラジオのイヤホンを耳にしながら事切れた、最期まで静かな人という覚えがある。

　長く子どもに恵まれなかった両親のもとで母親が40歳のときの、4月1日に父は生まれた。早く就学できるようにと3月31日に出生登録をされた上に、旧制中学で飛び級して1年早く士官学校に入った。士官学校在学中に終戦を向かえしばらく父親の郷里に疎開していたというから、そこで今後について思うなかで、賢治や啄木を読んだのかもしれない。でもその後の父は、私の知る限りにおいて、賢治や啄木の影響を受けたような心持ちの人ではなかった。ただ15歳で始めた句作だけは終生続け、阿部みどり女主宰『駒草』の同人として死の間際まで俳作をしていた。

　遅くまで起きていると叱られるので、布団を被り懐中電灯で文字を照らし『銀河鉄道の夜』を読んだ。そして息苦しくなると、しおりを挟み本を布団の外に出す、テレビが生活に定着する前の子どもの暮らしの一コマだ。後年に賢治に没頭したのは、結婚を機に盛岡で暮らし、日常に岩手山や小岩井農場があったことが深く影響している。

ええ、もうぼくたち遠いところにゆきますよ。どの風がぼくたちを連れてゆくかさっきから見ているんです。

どうです。とんでゆくのはいやですか。

　なんともありません。ぼくたちの仕事はもうすんだんです。

　　　　こわかありませんか。

いいえ、とんだってどこえいったて野原はお日さまの光っでいっぱいですよ。ぼくたちばらばらになろうたって

どこかのたまり水の上に落ちようたってお日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ。

そうです、そうです。なんにもこわいことはありません。ぼくだってもういつまでもこの野原にいるかわかりません。

もし来年もいるようだったら来年はここへ巣をつくりますよ。

ええ、ありがとう。ああ、ぼくまるで息がせいせいする。きっとこんどの風だ。ひばりさん、さようなら。

ぼくも、ひばりさん、さようなら。

宮沢賢治『おきなぐさ』より抜粋

　歳を重ねて、私はどんどん賢治が好きになる。