　関西の美大で教鞭を執る友人に訊くことがあり電話をした。彼女が都内の学校を辞し現在の職場に移った時期、重なるようにして、夫の医療事故が起きたものだから、２年半以上彼女とは直接話していない。いつもfbなどで発信される彼女の作品展記事を最近眼にしていないので、新しい環境下で創作に集中出来ないでいるのではないかと気に掛けていたら、やはりそういうことだと、最初電話口の声も重かった。彼女は彼女で私のモチェニーゴ宮でのレースイヴェントでの写真を見たといい、「前進しているな、という感じのスカッとした顔つきをしていたから、安心した」と笑った。

　「あのとき着ていたジャケットは、蓮の繊維なの」「えっ蓮からも糸が採れるんだ」「そう、茎からね。藕糸布というんだけれど、本当に偶然に出会ってね。ジャケットをお願いしたのよ」

　「ミャンマーの湖上生活する人たちが績んでいるものなんだけれど、今のミャンマー政情を思うとしばらく服地くらいの幅が日本に入ってくるのは難しいかもしれない。蓮のちょっとねっとりしたあの感触が着ていても感じられる、不思議な着心地」

　「そうなんだ、、、ねぇ、績むって言葉、いいよね。私ね、最近糸偏のつく漢字には人に関わるものがずいぶんあるな、と思いついて糸偏の漢字を調べたの。そうしたら結構ポジティブな意味合いを持つのが多いとわかったの。ほらっ、納めるとか繋ぐとか、紹介の紹とか」

　翌日私も糸偏の漢字を少し調べたら、確かに人の暮らしに関するものが多いような気はしたが、彼女の言葉通り肯定的な意味合いがたくさんかを確信するまでには至らなかった。もしかすると、新しい職場での人間関係に苦労しているものだから、人への信頼を取り戻す言葉を、意識せずとも眼が追っていたのかもしれない。

　１０月末にボローニャから帰って以来、糸まみれの暮らしだったといったら大げさだが、パオラが週の大半をかけて指導してくれた中身が、頭の中から流れ出してしまわぬうちに手に記憶させようと努める毎日だったのは本当だ。手仕事好きといっても私の手は、広げた１枚の布に想い描いた衣服の線を引くのに多少長けていても、針１本を的確に動かす力は備わっていない。だからニードルレースに関わり始めて、数限りなく手の無能さを味わっている。

　それを吐露すると、パオラはいつも「３０年ボビンをやっていた私がこのレースに出会ったのは、６０歳の時だよ。それまで私は針を持っていなかった。長く刺繍をしていたあっちのパオラには、すごい手筋がある。でも手筋も大事だけれど、とにかく毎日針を持つこと。上手くなるにはただそれだけ」とまるで自分に言い聞かせるように応える。

　その言葉を裏付けするのが、仕事部屋の天井丈のカセットにぎっしり詰まった資料だ。彼女はどのファイルにどのような内容が納められているかが、すべて頭に入っている。いつだか「これだけの資料があるのだから、本も出せるのでは」と口を挟むと、これは教えるためにある資料で、これを見るだけでこのレースができる訳はない」と息巻かれてしまった。

　とにかく糸の動きに四六時中気をとられているものだから、医者の予約日も失念、友人たちに送る荷物は取り違え、と散々なことをしでかしあちらこちらに迷惑をかけた。早々に免許証を放り出して本当によかったと、こんな時に思うのだ。

　寝ても覚めても終日９mmの麦粒と７mmの葡萄の粒のステッチが、頭の中を巡っていた。いったい何粒刺しただろう。これならパオラに見せられる、と思えたものが出来たところで撮ったそれをパオラに送った。

　Posso dire che l'impegno c'e`!! l'uva e`fatta proprio bene complimenti.

　何とか葡萄には及第点がついた。だが麦粒についてはステッチの手順を再確認され、間違ないとわかると、であればもっと鋭利なハサミを使ったほうがよいといわれた。おそらくまだ糸端を切り落とす私の技術上の問題で、すぐにハサミのせいには出来ないが、年明けに再度麦粒へのステッチを試みて、もしそれでも上手く仕上げられなかったら、より優れた刃先のものを探さなくてはならないだろう。弘法筆を選ばず、というが悲しいかな未熟者は道具に頼るしかない。

　早朝にボローニャ駅を発ちイモラに向かう。イモラにあるパオラの自宅で終日レッスンを受けた日々が蘇る。麦のステッチを習い始めたその日、彼女の仕事部屋の真下で何か工事がされているらしく、ドリルの響きで時折窓ガラスが揺れた。うるさくて集中できないだろうと、小机を台所に持ち込み、左右の麦粒に集中していると、瞬く間に昼近い時間が来た。

　私は食事の用意をするから、とにかく糸はすべて茎の下を通して移動させるのを忘れず、最期の穂まで仕上げなさいと言い置き、パオラは席を立ち昼の支度を始めた。

　「さて、湯を沸かそう。時間がないから給湯器の湯を使おうね。給湯器から熱いのが出てくるまで時間がかかるのよね」レース以外でのパオラは結構気が短い。図案の上で針が彷徨っていると、横で貧乏揺すりしている時がある。

「ソースはキノコにする？ゴルゴンゾーラも美味しいけれど、あんたはキノコが好きだから、シモーネからもらって冷凍しておいたポルチーニがある、それを使おう。シモーネを覚えている？ほらみんなでポルチーニを食べに行った、私のいとこのあのレストランを」

　私に問うというより、半ば独り言のようなパオラの言葉が次から次へと続く。私もろくに応じないものだから、いつしかパオラも無言で手を動かしている。

　湯の沸く音、鍋が擦れる微かな金属音。キノコが油の中で煮えている。蛇口から流れる水がせせらぎのように響く。窓辺には、まぶしいくらいの日が注いでいた。階下の工事も終わったようだ。大きな母性に包まれステッチする気分だった。心が果てしなく静まった。生まれ出る前の、胎児の幸せというのがあるとしたら、ふとそんなことを想った。

アイヌの人たちは清い水の流れをタイ・ナイ（胎内）と呼んだ。「産みたくなかった子」という意味づけで今も私を縛る母の胎内も、清らかな水で満たされていたのだろうか。

　数日まえに教室のすべてのコースが終わった。期間中に本当にたくさんの出来事が起きたから、ふたりのパオラも今季の終了を感慨深くむかえ、安堵しているだろう。

　もうすぐナターレーだ。イヴの夕餉の食卓に掛ける大きなクロスに何人かが挑んでいたが、「出来上がるのは何年先になるか」と誰もがため息をついていた。でも今年は無理としても来年のナターレになれば、みなそれぞれのクロスを卓上に広げ、その夜を祝うにちがいない。