　心から美味しい、と感じるものをいただく機会にめぐまれている。病院を行き来する暮らしが続く私への、友人たちのありがたい気遣いだ。

沖縄から届いた荷には大量のパクチー、青パパイヤ、桶柑に加え、みごとなプンタレッレまで入っていた。ほろ苦いチコリ系のプンタレッレは、イタリアでは春を告げる野菜のひとつだ。

沖縄の乾燥した赤土は、イタリア野菜を育てるのに向いているのだろうか。カルチョーフィーの葉がボウボウに茂ってきたから、今年は花が咲くかもしれないと友人はいう。もしかしたら瓶詰めのちょっと酸っぱいカルチョーフィーではなく、新鮮な生を料理できる日があるかも、と生産する側ではない気楽さで、沖縄の畑を垂涎の面持ちで想う。

　東日本大震災関連の番組の中で偶然知ったのだが、イタリアではトイレ、ベットつきテント、そしてキッチントラックが、災害発生から４時間以内に避難所に運び込まれるという。本格的な調理装備のキッチン車では、１時間に１０００食の温かい食事をコックが作る。しばらくするとワインが供されることもあるらしい。

２００９年春、アブルッオ州ラクイア地震の直後にスルモーナに滞在した。町は震源地から多少離れていたこともあり、頻繁な余震を避け、教会脇の空き地に自前のテントを張った数家族を目にしただけだったが、ヴェネツィアの友人はそのとき、ラクイアにボランティアとして即刻派遣された。弁護士の職にある彼が、人命救助に関われる高度なレスキュー技術を身につけているとそこで初めて知り、イタリアのボランティア事情が、極めて高い実際能力を備えていると思い及んだ。

夫がICUに入り、そのほぼ同時期にウィルスの蔓延騒ぎが始まった。面会もままならぬ状態が続き、家で気を揉むだけのある日、冷蔵庫で重なる麹の袋が目に入った。ストーヴを焚いている間に毎年仕込む味噌用の麹だ。すでに大量の大豆も用意してあった。命の危機に直面する夫がいての味噌造りは、さすがに身に堪えたが、有難いことにこれを契機に料理する感覚が身体に蘇った。

　「独り暮らしなのに、よく料理をするね」と言われる。「さびしくなるからね」と応えるが、それを友人たちはどう理解しているかはわからない。でも、身体に馴染むものを食すると心が安らぐ。命に関わる突然の出来事に直面し、PDSDの状況に放り出された私が、組織から心を支えられることは一切なかったが、好物を届けながらそっと見守る友人たちの、静かな気遣いで私は生き延びられた。

　一昨年の復活祭を目前にした頃、ボローニャのレース教室もウィルス禍の影響で活動を休止せざるを得ない状況になった。ある意味で突然に生き甲斐を奪われたようなパオラ先生が、ネットを毎日さまよう様子を伺い知り、心が痛んだ。

　とある日パオラ先生に次に取り組む図案の手順を訊ねた。いつもならばすぐに返ってくる指示が、この日はなかなか来なかった。もしや体調を崩されているのではと案じていると、Rioloの教会のtovaglia、テーブル掛けというが教会用だからかなりの規模かもしれない、そのデザインをするために外出していたので返事が今になった、と夕方遅くに的確な指示がきた。

　以来早朝か夜でないと、先生と連絡がとれない。そのtovaglia製作に集中しているのだろうか。針に糸をなかなか通せないでいる私の脇で、貧乏ゆすりをしながらジリジリするような先生だが、一旦製作にのめり込むと、声かけすら憚られる空気が周囲に漂う。そういえば最近の先生は「神のおかげ」「神のご加護」という言葉を頻繁に使ってくる。困難な事態の終息を祈願し、心込め製作したものを寄進することもある。先生は、祈りのtovagliaと向き合っているのかもしれない。

　先月終わりに知り合いの新居に贈るコート掛けが出来上がった。フレームに収まったレースを眺めていると、ひとつの想念が突いて出た。

「対価なこと、対価でないこと」

あまり感心しない話だが、あるとき先生がレースの値と手吹きガラスの値を比べ、「ふぅ」のひと吹きのガラスに比べ、レースにかかる時間はどれだけなのよ。でもレースの値を聞いて人は口々に「高い」というのは何故、と息巻いたことがあった。

　製作に要した時間それなりで値がつく世界もある。しかし「対価」では量れられないものもある。だれがそれを所有しようが、値づけを一切拒む世界だ。それは身の羽1本１本を引き抜いて機織りしたつうさんの心情につながるように思える。

　しばらく前から夫の発語訓練が始まった。長く震えなかった声帯機能を回復させるにも、問題は多々生じてくる。夫の年齢を考えると、もうそうしたことは一切なしのまま静かにという思いに捕らわれるが、可能なかぎり尊厳のある状況を取り戻すのが一義だと、言い聞かせている。

　新しく向き合う図案は空想の花。燃えさかる炎のような花弁の形に魅せられた。花弁へは、心のおもむくステッチを選ぶ。オリンピックの聖火のように見えるでしょ、と軽く言いもするが、私にはいかようにも収まりのつかない、怒りの炎に映る。１年前の出来事への自身の後悔と組織への怒りにこの炎が重なる。

ゴルゴンゾーラ使った甘くないチーズケーキを焼いたから送るね、と夫の学生時代の同級性から連絡があった。長男のお嫁さんへのホワイトデー用と一緒に作るのだから、気にしないで、という。　　

　彼は洋菓子協会の機関紙の編集をしていたが、４０歳半ばのとき南伊豆で就農し、今は浜松の息子が住職する寺で下働きを楽しんでいる。洋菓子作りはプロ顔負けだが、お惣菜はからっきしダメと、やはり同級生だった彼の妻は笑う。

つい先日も伊豆の家の庭に実った甘夏をひと箱送ってくれたばかりだ。夫の仕事だった甘夏の皮むきから逃げ、今回は丸ごと処理してコンフィチュールにした。この甘夏のほろ苦さを、焼きたてのクランペットにのせ朝を楽しんでいる。

　命の芽吹きを含んだ春のほろ苦さが心に馴染む。なんて美味しいのだろう。

美味しいもの