今宵は古典文学について、作家の林望さんの講演を聴いてきました。

林さんはかつて、慶応大学付属の女子高校で国語教師をされたこともあるそうですが、
「現代国語なぞ教えても仕方がない!」という信念により古典しか担当せず、
しかも文法は一切教えることなく自前の教材で授業を進めたそうです。
まぁ、大学受験のない高校でしか不可能な教え方かとは・・・(笑)

一見ムチャクチャなように思えますけど、この授業で生徒達へ伝えようとしていたのは、
「源氏物語などの古典文学が、どうして千年以上の時を越え、いまだ読み継がれているのか?」
という核心部分。大切なのは、古典文学の完璧な訳を作れるようになることではなく、
そこに書かれている内容をしっかり味わえるということ、という趣旨のお話をされてました。

博士課程まで進んだ大学院時代は、江戸時代の浮世草子を研究対象にしてたそうです。
しかし研究してみてようやく、「研究に値しない」ことがわかったとのこと(^^;
膨大な数の文学作品を比較研究した結果、「流行りモノは後世に残らない。」という傾向を
見出したそうですが、言われてみれば確かに、750万部を越える戦後最大のベストセラーとなった
『窓ぎわのトットちゃん』など、その時期だけ売れてすぐ消えてしまった印象あります…。
林さんの分析では、近代文学で後世に残れるモノといえば、「せいぜい夏目漱石くらいでは?」と、
かなり手厳しいご評価でした。。。

さて、「古典文学は何故いまだに残っているのか?」という肝心の部分、一言でいえば、
時代を越えて受け入れられる「大和魂」、つまり「日本人のアイデンティティー」が
そこに宿っているからだそうです。もっと平たくいえば、日本人にずっと受け継がれてきた
共通の“美意識”(=もののあはれ)があり、いまに残る古典文学は、そこの部分で共感
出来る内容だからとか。同じ時代に生きてないのに“懐かしい”(=心がなつく)といった
感覚でしょうか?

と申しましても、学校で教えるような古典文学は、“あたりさわりのない部分”、すなわち、
“全く面白くない部分”が対象となることが多いので、なかなか古典本来の面白さに気づく
人は少ないのだそうですけれど…(^^;

なお、清少納言の『枕草子』にある学校では教えない“当たり障りのある”部分、
面白い例として少し解説いただきました。かなり意訳入ってますけれど、以下、
ほ~んの一部だけご紹介しておきます。

―――

 説教の講師は、顔よき。講師の顔をつと目守らへたるこそ、その説く言の尊さも、おぼゆれ。
(お経を講釈してくれるお坊さんは、やっぱりイケメンの人がいいです。
 顔をじ~っと見ていてこそ、ありがたい話のように思えてきますから。)

 ひが目しつれば、ふと忘るるに、「にくげなるは、罪や得らむ」と覚ゆ。
(それに引き換え、ブサイクだとよそ見してしまいますから、話が頭に入ってきません。
 だから「顔つきがブサイクなお坊さんは、罪作りだ。」と思いました。)

 この詞、停むべし。すこし齢などのよろしきほどは、かようの罪得がたのことは、書き出でけめ。
今は、罪いとおそろし。
(いやいや、そんなことを書いてはいけませんよね。死ぬなんてこと考えてなかった若いうちなら
ともかく、私ももう歳なんだし。罰当たりなこと書いて、地獄に行ったりしたらいけませんものね。)

                         by 清少納言