実はもう一つ、「旧開智学校」で印象に残ったことがありますので、ご紹介しておきます。

長野は、昔から教育熱心な県民性で知られていますけれど、
その象徴のように感じたのが、“子守教育”の展示紹介でした。

ふだん当たり前のように思っていることが、実はとても大切なことなのだと、
ふと気づくことってありませんか??
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日本においては、明治5年に学制が公布され、全国に学校が整備されていきました。
明治6年、この地に開智学校が出来て後は、きっと付近の子供達すべてがここで勉強していたはず…。
そして“学校に通えない子供達”といえば、まるで遠い国での話のように、私は思っていました。

しかし、ここでの展示を見て、それが単なる錯覚だとわかったのです。
当時、貧しい家に生まれた多くの子供たちは、小さい時から子守奉公に出され、
昼間はもっぱら赤ん坊の世話。学校に通うヒマなどなかったのでした。

さて、そんな境遇の彼らにとって、学校は憧れの存在でもありました。
やがて開智学校では、赤ん坊をおぶった子供達が、塀の外などから
音楽や体育の授業を熱心に覗き見する姿が見られるようになります。
見よう見真似で歌を歌おうとしたり、体操の真似事をしようとしたり…。

「この子供達を、何とかしたい!!」
やがて、これに目を留めた先生達により、放課後、彼らにボランティアでの教育
が行われるようになります。これが、“子守教育”の始まりです。
「子守奉公にしている子供達にも教育を!」
そういった声はだんだんと高まり、ついにここ松本では、明治32年から昭和10年頃にかけ、
赤ん坊同伴で学ぶことの出来る“子守教育所”が実現したのでした。

展示されていた物の中には、脇に降ろした赤ん坊と一緒に、
机の前であどけない眼差しをカメラに向ける子供達の写真もありました。

また、ここで学んだ子供の作文、決して上手とはいえないたどたどしい字でしたが、
「先生方や奉公先のご主人のおかげで、自分はここで文字を学び、
 国許の両親に手紙で近況を知らせることが出来る。それが何より嬉しい。」
そんな素直な喜びが綴られていました。

正規に通う生徒に比べ、そこで教えられることは限られてはいましたけれど、
この“子守教育所”が果たした役割は、非常に大きなものだったのです。
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以上、「学べることは幸せ」と教えられた、開智学校のエピソードでした。