以前、長野県の松本にある「旧開智学校」を訪れたときのお話です。
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/tiiki/bunka/gakko/profile/

明治時代に造られた元小学校の建物が、「教育博物館」となっていました。
当時としては大変モダンであったであろう建築で、国の重要文化財にも指定されているものです。

中に入りますと、昔の授業風景や教科書の紹介コーナーなどあり、とても興味深い内容でした。
明治時代に行われたという小学校四年前期に相当する進級試験問題は、
漢字書き取りに「ぶどうひとふさ」,「ひな」という出題。
・・・求めるレベルがすごすぎます。


さて、そんな見学をしている最中に、ある小部屋で、1体の人形が目に止まりました。
“ジェーン”という名の、青い目をした人形でした。
アメリカから松本幼稚園に贈られたものだそうですが、
「何で学校に人形が??」
最初、素直にそう思った私です。そして逆に、知りたくもなりました。
そこの解説を読んだのはもちろん、家に帰ってからも追加で詳しく調べてみたのです。

その結果、この人形にまつわる、次のような話を知ることとなります。

―――
大正時代末期、日本とアメリカとの関係は、とても悪くなっていました。
当時のアメリカには、日本から沢山の移民が入り、その多くは勤勉に働いていたようです。
けれど、アメリカは長い不景気に見舞われていました。
「不景気の原因は、日本人が仕事を奪ってしまうせいだ!」と主張するアメリカ人も多く、
残念ながら、対日感情は改善の兆しが見えないままだったようです。

しかし、そんな状況に心を痛める、一人のアメリカ人がいました。
シドニー・ギューリックという宣教師です。

「未来の国民である子どもたちがお互いを知って仲良くなることが大切である」
彼はそう考え、
「日本の子供たちへ人形を贈ろう!!!」
と全米に呼びかけたのでした。

すると、約260万人にものぼるアメリカ人親子から賛同がありました。
寄せられたカンパを元に12,739体が用意され、
昭和2年、海を越え、“友情の人形”は日本各地の学校へと贈られます。
日本へ人形がやってきた時、それはそれは熱烈な歓迎を受けたそうです。

しかし、そんなささやかな平和への願いは、やがて起こる戦争により、踏みにじられてしまいます。
英語の使用も禁止されるような状況下、人形達はどうなったのか??
「敵国の人形だ!!」,「敵国のスパイだ!!」
と、校庭で燃やされたり、竹やりでつかれたり…。
憎しみの目のもと、そのほとんどが失われ、そして、忘れられていったのでした。
―――

しかし、戦後になり、日本各地から「人形再発見」の知らせが入りはじめます。
学校の倉庫の奥深くなど、人目につかないような場所で“ひっそり”眠っていたりしたそうです。
確認されている人形は、今の時点で約300体、数字の上では元の3%にも満たない数です。
しかし、隠したことが周りに知れれば自分がどうなるかもわからない時代、
残った人形の数だけ「守ろうとした人」がいたという事実。。。
そう考えてみますと、これは決して“少ない数”でないようにも思えるのです。

どのような経緯があり、“ジェーン”がここに展示されるようになったのかはわかりません。
けれど、人形から「声なきメッセージ」が聞こえてくるような、そんな信州への旅でした。


なお、埼玉の方でも、以下のような紹介がなされています。
もしご興味ありましたら御覧下さい。
http://homepage3.nifty.com/saitamapeacemuseum/JIGYO/Ko_aoime.htm