私にとってもバーボンエクスプレスは、「最良で最高のつくりもの=エンターティメントである」と今でも思っている。私が企画発想したイベントイメージをすべて具現化して、演出したのは彼の手腕である。私は音楽世界にいた彼を、80年代には「イベント制作」、90年代には「インターネット世界」に引きずり込んだ。彼はパソコン、デジタルを操るようになり、BSラジオの立ち上げに黙々と取り組んでいった。

昔を思い出しながら、重いトーンで会話が進行する。その日は、本当の仲間だけで「静かなお別れ会だけはやりましょう」と話をしてその場を出た。その後“何が”と言う訳ではないが、何か込み上げるものが湧き出してくる。決して涙ではない、感傷でもない、何故でもない、どうしてでもない。長年の付き合いに感謝の気持ちはある。人の死を悲しみ、慈しむ気持ちもある。でも違う、「ああ、やはりそうなのか」という感慨しか湧いてこない。

より深い「感慨と切なさ」が出てきたのは、夕方というより夜であった。18時からフランス語の講座があったが、全く頭に入らず、思わずレッスンを半分で打ち切った。一人でグラスを傾けようかとも思ったが、それは余りに寂しいので、妻と食事をと思い電話するが残業と言う。結果的に夜遅くに語り合ったが、彼女も多忙なのだろう。

親の死を聞いた時にでも感じなかったものが、何故か込み上げて来る。そう言えば、どういう風に亡くなって、いつ発見されたのかも聴かなかった。直前の彼の行動を辿ると、3月25日には私の友人の仕事を手伝っている。その日、私は自分の生きがいと長年の夢実現のため日本には居なかった。グラスを傾けていると、彼の娘と妻の心が思い浮かぶ。我々の最大の配慮は「その残されたもの」に対してしか出来ないのは明白である。また、彼を「弱い人間だった」というのは簡単な事であり、そして、その一言しかないのだが・・・。

ところで、今年に入ってレイモンド・チャンドラーが村上春樹によって翻訳され、単行本にて発売されている。“ギムレットには早すぎる”という台詞で有名な「ザ・ロング・グッバイ」である・・・『長いお別れ』になってしまった。


 2008104日土曜、東京駅発「はやて7号」828分発にて塩釜に向かう。午後から雨の予報が出ているが、今は晴れ。新幹線の中では、朝早く目覚めたため3040分ほど浅き夢を見ながら眠る。一昨日、真夜中に足がつるということがあった、昨日整体の医師に聞いたが「もう出ることはないのにおかしいなあ」と首を傾げる。はて、何か塩釜行きを止めるものがあるのかと懸念したが、「急の寒さで出ることがある」とも言うのでふっと一安心する。出るものが違っていてよかったのだが、まさか「来てくれるな」という声であったらと思い悩む。

108分仙台駅に到着、そのまま仙石線に乗り換える。仙台駅の構造は知っていたが、ローカル線への乗換経験は結構遠い。いわゆるローカル線のホームを想像していたが、案内標識はひたすら長い通路を地下に向かっていく。なんと地下ホームであり、東京の地下鉄の風景と変わらない。仙台市内の終点はあおば通り、ここで地下鉄に連絡しているという。仙台駅から3つ目の駅まではなんと地下を走り、外に出ると町並みはまさに稲田が多い仙台郊外の風景である。一方、マンションも意外と多く、一軒家はその中に埋もれている。さらに走ると田んぼの中には、あの東北学院の中学と高校が広いグランドとともに威容を放っていた。多賀城駅の名前を聞くと「歴史上の戦いの地」「アイヌと大和民族」などの言葉が浮かんでくる。仙石線沿いには松島海岸や石巻があり、それらの出身地の知人がいるが、訪れは始めてである。そう言えば、日本三景で見ていないのは松島海岸だけである。

西塩釜駅に着く、小さな駅であるが、ホーム反対側にお寺が見える、あれが「願成寺」である。7~8分ほどかけて、正反対にある入り口に向かうが、立派なお寺である。早速、姓名と母親の名前を頼りに墓所の位置を聞く。この地では多い姓のためか台帳から見つけ出すのに苦労していたようである。墓所まで案内をしてくれるというのでついていくが、途中で今年10月に父親が亡くなっていたとの話も聞く。崖につくられた墓地のため、階段を上る。見つかった、早速線香をたき、手紙を供える。そして合掌し、思い出にしばし耽る