諦念日より一週間が過ぎ、やっとブログを書くタイミングが持つことが出来た。何人の方から励ましの言葉をいただいた。感謝である。

◇誰にも邪魔されない自分だけの自分の時間。余るか足らないか!長いか短いか! 一度落ち着いたら、新しい違う流れに身を任せ…川の流れのように…残りの人生楽しみつつ、息災に。

◇もうブログは書かれないのですか? 私の公私の生活の糧にさせていただいた文章も沢山ありましたから…充電後はよりパワフルに活躍されそうですね。◇

◇何はともあれ、五体満足無事に今まで生きて生活出来たことに関して『おめでとう』ですね。これからバックグラウンド無しの『お一人様』の世界にようこそ。気楽で良いですよ。(好きな詩集より)[できたら からだの枯れる時は 魂の実るとき 時計では刻めない時間を生きて 目に見えぬものを信じて 情報の渦巻く海から ひとしずくの知恵をすくい取り猫のようにくつろいで]◇

何から書き出すか、思いあぐねていたら、ある方から「綴年」という言葉をいただいた。『定年→綴年の節目として今までの、そしてこれからの多くの綴りを、その綴りを聴きながら飲むお酒はとても楽しみです』。これまた嬉しい言葉である。そう、これからは、何かを書き綴っていくことになるだろう。そして、その語る時間をご一緒させて下さい。その何かは香高堂の性格故にこれまでと変わらぬものであることは確かであろう。ただ、連載ものとして「メディアの盛衰~社員から見たライブドア事件の裏側」はじっくりとしたためて行きたい。

さて、ある方より「退職したら、毎日家にいるよりはどこかに通った方が良い」とのアドバイスを頂いていた。そうかもしれないと思ったので、一日の午前か午後、約2時間スポーツクラブ通いをしている。腰痛のリハビリもあり、今はヨガとプール歩きが中心である。それにしても、この硬い身体を早く柔軟にしたいものである。コアバランスを心がけているが、今は左足首が不安定なので、おそるおそるの動きである。

さらに日々の動きとしては、パソコンやプリンターの新規購入に始まり、本棚や洋服の等整理を含めて書斎環境整えに入っている、また、これまでお世話になった方への御礼をするために名刺住所録整理、パソコンメール整理をしている。これだけでも結構時間がかかる。御礼のご挨拶が遅れるのは確かである。怠慢、怠惰という言葉が改めて身に染みる。

週末には新しいパソコン等のセットアップ作業があるが、どうやら20年前とほとんど同じ時間が掛かりそうである。パソコン業界の怠慢が目に見え、携帯やスマートフォンに流れる若者が増える傾向が分かる気がする。また、一応朝食づくりなどの主夫業、雑事片付けがあり、落ち着かない日々となっている。今週も60年間の再整理であるが、それなりの思いが詰まっているので、ものや本を捨てるのは難しいものである。

東京砂漠では、雑然と時間が流れ、何かゆったり出来ない感じがする。今は時間や物事をコツコツと片づけていくことが肝要のようである。焦らず、じっくりと思いながらも生来のせっかち人間はなかなか変えようがない。メディア人間として情報を常に摂取するように心がけてきたが、今は一日2回程度のパソコンメールとタイトルだけのニュースのチェックだけである。テレビもあまり見ないし、新聞も取っていない、それで十分といえばそうである。それもまずいと思い、30年ぶりに新聞を購読し始めた。折り込みチラシも久しぶりである。アイパッドなるもので読むのはまだ早いし、面倒である。90年代初めからデジタル社会に取り組んでいたが、根はアナログ人間だったのだろうか。情報は無くとも生きるのに困らないは確かである。ただ、情報はその人が何をしようとしているのか、そのために何が必要なのか、見極めるためのツールである。

そう言えば、サハラ砂漠では砂は流れていたが、時間は止まったかのようだった。香高堂風信記の中の「モーリタニア旅行記」(http://www.deskm.co.jp/kotaka/kdf04/m.html )に下記のように綴っていた。

時計というものが存在するようになり、人間の持つ“時=とき”の観念は大きく変わった。時が文化というものを育ててきたように思える。さらに“時を携帯出来る”という腕時計は、人間生活に大きな変化をもたらしてきた。そして、“携帯”という概念、ツール化するものの存在“時計、カメラ、電話”は現代における人間のあり方、生活の考え方を一変させている。(略)
砂漠では時間は流れないだろうか。そうか、流れるのは砂だけか!故に砂時計があるというのか。