No.0032


こんにちは〜😄✨

 
青森郷土歴史愛好家こーちんです!!
 
今回は青森歴史部による「青森市の旅」常福院(横内城址 )の旅です✨
 
実はこの場所は青森市の歴史を語る上では、絶対外す事の出来ない所なんですよ〜☺️
 
では今回は、横内城を築城した「堤弾正」について書いていきますね!!
 
時は14世紀、現在の青森市西部を治めていた「外の浜安藤氏」が津軽大乱により勢力が弱まった時に南部氏に攻め込まれます。
 

その後、南部氏がこの地を治めるために青森へ来て、一代で二つのお城を築いた武将が「南部二十代藩主信時の四男光康」、またの名を「堤 弾正 光康」です!!
 
 
南部氏支配下とは言え、旧安藤一族も100%従っていたとは考えにくいので、防衛のためにお城は必要だったのでしょう。
 
最初に作ったお城は「堤浦城」と言って、現在の松原で、棟方志功館付近でした。
 

当時、駒込川 • 横内川 • 合子沢川の合流地点に「堤浦」と呼ばれていた場所に築城しますが、その後二つ目のお城「横内城」を築城します。
 
この写真は「常福院」の裏に残るお堀です。
 
写真ではわかりづらいですが、現地に行くとお城だった事を感じます😍
 

そして築城した時、同時に行った事業が後の青森市の原型をつくります。
 
そう「堤川」の掘削です❗️
 

 


当時の「荒川」は、旧大野村を流れて柳町から「安潟」に注いでおり、よく氾濫し人々を苦しめてきました‼️

 

 

特に古川周辺は湿地帯の沼地で、人が住める場所ではなかったようです💦

 

これは善知鳥神社にある「うとう沼」にも書かれていますね✨

 

 


この荒れ狂う「荒川」を駒込川に合流させ「堤川」を掘削し、「横内城」の防御と治水そして、干拓により荒川 • 大野地区を穀倉地帯へ変貌させました‼️

 

 

 

 
しかし時代が進み、堤家三代目「堤 弾正 則景」が「南部九戸の乱」で戦死した後、親戚でもある大浦家(津軽家)に飲み込まれて行くことになります。
 

その後「横内城址」は「常福院」としてお寺になり、今に至ります。
 
この詳しいお話は、次回書きます✨
まずは、知る事が大事ですね。
 
「知る事は愛の始まり」
 
いつも、ご先祖さまありがとう!
今日も、皆さんありがとう!!