こんにちは。
ママの実践ギフテッド教育のHiromiです。
私がHighly Sensitive Person HSPであることは、今回、初めて告白したと思います。
これまで私は何度がブログを立ち上げては閉鎖して・・・を繰り返してます。
その中でHSPについて記事をあげることはあっても、私がそうですということは一度も書きませんでしたが、
今回、ちょっと勇気を出してカミングアウトしてみました。
信じられずに驚いた方もいらっしゃると思います。
私のブログ記事をみたら、ずーずーしかったり、思うこと、感じることをズバッと発言してますから、周りへの配慮とか、繊細さなどがあれば、そんなことはできないんじゃないか?と思う方もいらっしゃると思うんです。
いえいえ・・・・周りへの配慮をするからこそ、ズバッと言っているのです。
HSPだからこそ、相手の発言や行動、思考の裏表が見えたり感じることができてしまい、私に向けられた何気ない言葉や態度の裏で悪意に満ちた相手の意図を酌んで、そのままお持ち帰りいただくようにしているのです。
じゃないと、相手の悪意のある言葉が自分にぐっさり心臓まで突き刺さりますから!
ただ、私がHSPであるということは、相手の方は知る由もなく、私に心を見抜かれてびっくりするんでしょうね。
「会ったこともないHiromiさんに私の考えや気持ちなどわかるわけないですよ!決めつけないで下さい!」とキレてしまう方も過去にいらっしゃいましたが、私が決めつけているわけじゃなくて、もう、その方の言葉に態度にでちゃってますから。
私から図星を突かれた恥ずかしさや自分の悪意のある意図を隠すための反応として、私に嫌悪感を感じるのは当然だと思います。
私も反対の立場で、自分の醜い心や思考を見透かされて、それを他人から放り込まれたら、やっぱり嫌ですもの。。。。。
で、私が相手にズバッと物申す時というのは、大概、私に対して”こいつ、邪魔だからやっつけてやろう!”という対抗心で私にチャレンジしてこられる方に対し、私の拒絶反応として、私に向けられた相手の方の言葉や意図を御返しさせていただく次第です。
この様子をまったく関係ない第三者の方や通り過ぎた方が部分的に切り取ってみたら、「ヒロミさんって、なんて攻撃的でキツイ性格なんでしょう!」という印象を持たれても不思議はありません。
でも、第三者は、もともと関係のない方なのですから、その方が私をどう思うかはその方の自由だし、私が気にする必要はないのです。
私は、自分がどう感じて、どういう行動をしたいか?ということが優先であり、HSPの性質の繊細さで、他人の気持ちを優先したり、自分の心が傷ついて寿命を縮めることは、逆に自分を大切にせず、自分を疎かにしていることになります。
このようなことで、自分が傷つき、鬱になることは、まさに、相手の思う壺です。
相手の方は、まさに、こちらを攻撃してやろう、やっつけてやろう!という意志で行動してくるのに、それをそのまま、どうぞ、どうぞと歓迎して受け入れる必要はないのです。
皆様、よーーーく考えて下さい。
人のために自分が役立ちたい!
人に役立つお仕事をしたい!
そう考えているのなら、他人のために自己犠牲なんかしていたら前に進めないんですよ。
自分のことすら大切にできない人が、
どうして他人を大切にできるでしょう?
私は、ギフテッドの啓蒙活動をして、ギフテッド当事者や家族のためになりたいと思って仕事をしております。
自分の気が向いた余暇に、無報酬で”やってあげる”ボランティア活動ではありません。
このことは、決してボランティアを馬鹿にしているわけではありません。
他人のために、自分の時間を割くというのは、とても尊いことだと思います。
でも、無料でやることを立派な無償の奉仕活動と勘違いした挙句に、
自分は立派なことをして、他人に尽くしているのだと、親切の押し売りと尊いボランティアを玉石混交している方もいらっしゃります。
人様が汗水流して一生懸命、働いたお金を、
私に使い、必要とされて私のサービスを待ってくださる方のために、
私も自分の持つすべてをその方のために提供するのです。
だから、それが私の押し付けや決めつけにならないために、私自身が常にニュートラルであり、
自分を尊重してこそ、相手の方の考え、行動、感情を理解して尊重することができると私は考えます。
自分の考え、行動、感情を理解できないで、他人の気持ちを理解するなど、到底できませんからね。
自分の良し悪しのすべて、その存在を受け入れて尊重することができなくては、他人のお世話を焼くなどできないことです。
自分で自分の面倒が見られない人に、他人の世話を頼んでも、共倒れするのがオチです。
そんなわけで、私は自分の感情や思考というものを常日頃によく観察しているのですが、
当然のように他人の感情、思考、行動についても、
私はとても深く観察しています。
決して、土足でその方の心の領域に入るわけではありません。
私の領域に黙って入ってくる方については、私はとても慎重に、自己防衛のためにもチェックはいれさせてもらってますので、ご了承下さい。
こうやってね・・・・本題に入るまえに、いちいち、ながーーーい工程をかけて深くあれこれと考えて説明してしまうのですが、これがHSPの行動なので、どうかお許し下さい。
ということで、やっと本題に入ります。
人の性格は、三つ子の魂百までと言われてますが、実際はどうなのでしょうか?
そもそも、性格っていうのは、成長と共に変化していくので、ずっと同じとは言い難いと思うんです。
これまた驚かれると思いますが、私の幼少時、実は、緘黙の傾向があったんです。(診断はされていませんので、あくまで傾向とさせていただきますね。また、実際に場面緘黙の診断があり、今現在、苦しんでおられる当事者や保護者の方は、私の記事で不快な気持ちにさせてしまいましたら、申し訳ございません。)
今はまったくありませんが、私は、小学校3年生までは、家族や親しい友達以外は、誰とも話さない子でした。
当時は、場面緘黙症という単語など親も知らなかったし、私自身も知りませんでしたから、私がそうだとは気がつきませんでした。
それがそうだと自覚したのは、結婚して子供を産んでからです。
ギフテッドのブログをやる前、昔、子供の頃、場面緘黙だったという方と親しくなって、その方といろいろと話しながら、私の子供の頃の記憶を思い出したら、共通することが多く、心あたりがたくさん出てきて、
”あれ?私、もしかしたら、場面緘黙だったのかしら?”
と段々と気がつくようになって、記憶を辿れば辿るほど、そのような状況でした
ずっと私は、自分の性格を社交的で人と話すことが苦痛ではないと思ってましたが、幼少時は、そうではありませんでした。
家族や親しいごく一部の友達とは話せるのに、他はまったくダメで、とても内気だったんですよ、幼少時の私は!!
自分でも信じられませんが、本当です。
小学3年生の時に引っ越しをして、転校したのをきっかけに、私は、自分を変えよう!変わりたい!と思って、少しずつ、人と話すように努力しました。
場面緘黙の人というのは、内気だから人と話せないのではありません。
なんらかのストレスがあって、声がでない!
恥ずかしいとか、人と接する恐怖から、人と話すのができないのではなくて、
声がでない!
もしくは、声と聴きとれる音量で発声できないような状態です。
私も大人になってから、場面緘黙の状態をいろいろと調べてみたんですが、努力して出来るぐらいなら、誰も苦労はないのです。
努力しても、声がでないから、場面緘黙症という疾患の名前があるのです。
知らない人や親しくない人と話すとき、体が鋼鉄のように固くなり、下を俯いてしまい、声が出なくなるんですよ。
なのに、家に帰ると、全然、平気!
場面緘黙症、実は、女の子に多いのですが、私もその場面緘黙症だったと思われます。
現在は、そのような状態にはないし、はっきりと当時に診断されたわけではないので、謎といえば謎のままですが。
私の場合は、私自身が自分で自分を変えようという試みがかなりありまして、
自分の意志による働きが私の場合は、相当に大きかったと思います。
親は私のことなど、興味なかったですし、両親はモラハラで、「あんたなんかいないほうが良い。生まなれば良かった。」とずっと私に言ってましたから、たぶん、そういうことがストレスになって、私は場面緘黙になってたと思います。
学校で少しずつ、親とは違う同級生のいる世界に慣れて、少しずつ心が開けるようになっていったんだと思います。
だから、今、もし、お子さんが場面緘黙症で、学校での生活をご心配されていたり、子供の性格のことで悩んでいらっしゃるお母さんがいたら、どうか希望を持ってほしいと思います。
人は、いつでも、いつからでも変わることができます。
ただ、その変わる時というのは、他人から命令されたり、指示されたタイミングじゃなく、
あくまで当事者、本人の意志で決定したタイミングでなければ、変わることはできないのです。
慌てずに、じっとその子のタイミングを待ってあげて下さい。
どの子も必ず、自分のペースで成長してますから。
三つ子の魂百までというのは、その子の性格が一生変わらないのではなくて、
”本質の部分”は変わらないということです。
その本質というのがギフテッドという魂の部分のことです。
性格というのは、その人の成長過程によって個々の感じる感覚、思考、感情といった経験を通じ、個人の選択で、思考や行動のパターンが少しずつ形となって形成されていきます。
おとなしい子が一生、おとなしいとは限らず、
小さい頃は明るく元気だった子が、なにかの体験で引っ込み思案になるなど、
人の性格というのは、ずっと同じ状態や変化がないということはありません。
私も、場面緘黙で口数が少なかったし、何かあるとすぐに泣いてしまっていたので、泣き虫と呼ばれ、バカにされてきました。
相手を自分の思い通りにさせたくて泣いているわけはないので、誤解されないように、できるだけ泣かないように努力はしています。
大人になってからは自分のことで泣くことは滅多になくなりましたが、それでも本を読んだり、映画を見たり、あるいは何気ない日常の中でも、すぐに感情移入して涙がでやすいから、やっぱり泣き虫は治ってないんだとは思いますが。
自分の性格は〇〇だから!という決めつけや思い込みを取っ払ってみると、
自分の新しい側面を発見したり、自分の持つ可能性を見つけやすくなりますよ。
自分はギフテッドではない!と決めつけずに、
自分が喜べる何かを発見し、そのことで誰かを幸せにできるとしたら、こんなにハッピーなことはないと思いませんか?
だれかを犠牲にして自分だけが幸せなんじゃなくて、
自分も相手も、お互いにハッピーな状態を広げたら、生きづらさなんてどこにもないことに気がつけますよ。