貪、瞋、癡(とん、じん、ち)
とんきち、ちんぺい、かんた、の三兄弟の事じゃねぇーぞ(笑)
僕らの人生の、苦悩のほどんとは、「無明」ということが原因だべ。
この「無明」というのは、詠んで字の如く、明かりが無い、暗くて手探りの状態だぁ。
心が、そんな状態だという意味といえんべ。
じゃあ、この「無明」のような状態から、どないなことが顕われてくるかっつーと、仏教的に説明すっとよ、"心の三毒"なんだな、これが。
心を毒するものには3種類のものがあんだよ。
この三毒は、「貪、瞋、癡(とん、じん、ち)」っつーんだ。
まず、「貪(とん)」。
貪り(むさぼり)の気持ち。
「欲が深い」、「ガツガツして浅ましい感じ」。
食欲、性欲、出世欲、物欲・・・etc...。こうした貪りの気持ちだべ。
簡単にいうと、『奪う愛』っつったらいいかな。
しかし、中々難しいもんでさ、この欲がねぇと向上心が生まれてこねぇーんでさ、自分を客観的に観て、冷静に判断する必要があんべな。
その欲がさ、自分にとって分相応の願いなのか、分不相応な欲望なのかを、常に客観視する努力をすんべよ。
僕はこん中で、性欲に困ったちゃん状態ですが・・・(爆)
次、行ってみよう、「瞋(じん)」。
「瞋」とは、怒りだ。
憎しみなんかも含まれっと。
どんな人でも怒りはあっぺと思うけど、コントロールできねー怒りと言ったほうがいいんでないかい。
自分を見失ってしまうほどの、怒りだんべな。
このような怒りが出て、穏やかな心を波立たせてしまぁーと、人生の修行どころではねぇーべなや。
しかし、これも例外があって、今言ったのはあくまで自分自身の個人的な怒りのことであって、世の中を前進させるような怒り、すなわち、昔の明治維新の頃の志士達の怒りみてーのは必要だぁ。
正義っつっとこーか。
それと、怒りではない、叱るっつーのも例外だんべな。
この辺の違いは非常に難しいものがあっけどよ、この事も常に心に刻み込んでおいておくんなまし。
そして三毒、最後の「癡(ち)」。
愚かさっつーかなぁ。
だけんじょが、人間は皆、愚かな存在だぁ。
しかし、この「癡」のような"やまいだれ"を使った漢字で表わすように病的なほどの愚かさまでは、いってはいけねぇーべや。
うまい話に騙されること、同情心につられてついつい騙されることなんかもそうだんべ。
それはやはり、自分に対して、自信がないから騙されるのだと思うぞ。
三毒の説明をしたっきっとが、胸に手を当ててよく反省しちみちくろ。
この三毒が揃うと、いわゆる地獄と呼ばれるようなところへ近づいてしまうんでな。
復活!!!
だいぶ前に書いてたんだけどー、また書くかなーって・・・
今のこの時代に、修行という言葉は古いかもしんねぇーけども・・・。
しかし僕は、この三次元の世の中で生きているかぎり、生きて行く事は修行だと考えてんだよ。
仏教の教えの中に『五種法師』という、修行をする人のための修行の仕方があんだ。
字の如く、五種類あるんだけど・・・、
●1.「受持(じゅじ)」・・・正しい真理(法)を常に心に刻み、心から離さず修行に励む。
これはその前に、正しい真理、法を知り、理解する事が先なんだけど。
●2.「読(どく)」 ・・・昔で言えば、お経、経文を毎日しっかり詠む。現代で言えば、宗教書や、思想書、諸々の為になりそうな本を詠むという事だんべな。
●3.「誦(じゅ)」 ・・・そらんじる事。つまり、暗記までしていて、経文や、自分の指針になる本を持ち歩いていなくても、いつでも暗記している言葉を心の中で繰り返す事ができる、という事だぁ。
●4.「解説(げせつ)」・・・暗記はできていても、いざ、心の友や、可愛がっている後輩などに解説(かいせつ)ができるくらいでないと意味がねぇーべや。
●5.「書写(しょしゃ)」・・・今の時代、こうしてPCに向かってキーボードを叩いたり、スマホでLINEを打ったりで、中々、文字を書くという行為自体が希薄になってっけど、たまには、心を静めるために、「般若心経」のような有名なお経を写し書いてみる事もよかんべ。こういうお経で使用している文字、文字の並びには、目に見えない力が宿ってっからな。わかっかなぁ・・・。
さらに、伝統的な修行方法として3つあんだよ。
「戒・定・慧(かい・じょう・え)」という「三学」というものがあんだ。
修行者にとってもっとも大切な修行態度と言ってもいかんべな。
◎1.「戒(かい)」・・・戒め(いましめ)のことだ。この中には【不殺生】【不邪淫】【不偸盗(ふちゅうとう)】【不妄語(ふもうご)】【不飲酒(ふおんじゅ)】の5つがあんだ。解説はするまでもなく、詠んで字の如く、殺すなかれ、淫らなことするなかれ、盗むなかれ、嘘をつくな、酒を呑むな、という事だ。
だけんども、現代では使いにくい内容となってんな。だから、この「戒」というものは現代的には無くなってきてんだわ。
◎2.「定(じょう)」・・・禅定(ぜんじょう)の定だ。
本来ならば、"結跏趺坐(けっかふざ)"という禅における、脚を組んで座り背筋をピンと伸ばして精神統一のスタイルをつくるのがいいんだけんど、まぁ、その姿勢でなくても、姿勢をよくして禅定をするという事でOKだべ。この時にもちろん、八正道などをしていかねばなるまいな。(八正道は、後で。)
◎3.「慧」・・・「智慧」の「慧」だ。単なる知識(knowledge)という意味ではなく、叡智(wisdom)に近いべ。っつーか、そーだわな。
この「慧」を得るにはどうしたらよいか。これは大変難しい問題だべ。とりあえずは僕のように、宗教書や思想書を詠んで勉強したり、毎日毎日生活の中でいろんな経験を積み、そしてそれを精神統一を通して得る。まぁ、自分の内面を深く見つめて自分自身を探究していく事によって、非常に深いものの考え方ができるようになって、「智慧」がつくのが一番だべな。欲すれば必ず、目の前に"人生の師"というのも現われてくれんべ。念は通ずるからさ。
こうした「戒・定・慧」の「三学」というものがあんだ。こうして一通り説明していくと、「戒」が今の現代では希薄というか、あまり通用しない時代となってっけど、おっとどっこい、一番大事なのが「戒」なんだよなぁ・・・。
なぜ大事かっつーと、一人で修行するよりもたくさんの人と一緒に修行した方が伸びるんでさ、そうしていろんな人が集まった時には、戒律などの決まり事を作っておかねーと、収拾がつかなくなっちまうんよな。そしてこの「戒」を破る、和して合している仲間を乱すという罪というのが、実はもっとも重い罪だと言われてんだよ。
地獄の一番深く暗い所に落ちていくのが、その罪を犯した人だと言われているからだべ。
やばいか・・・僕・・・(^^;

