「じゃらん」で予約したにっしょう館紅葉亭のプランは
2時間観光タクシー付きのプランです。
「世界遺産(候補)の旧グラバー住宅や大浦天主堂、貿易の窓口だった出島、石造二連アーチが美しい眼鏡橋など、長崎を代表する観光スポットを巡るタクシーチャーター券付プラン【2時間コース】
だったんですが 「翌日 グラバー邸の方は自分で廻りますので・・・」
と お話すると ドライバーさんが
「では 平和公園 永井隆博士の記念館の方を廻りましょう」
と提案されました。
恥ずかしながら 「永井隆博士」と言われても
「長崎では 有名な人? ノーベル賞か何かお取りになった人?」
とか 始めは思っていましたが あの「長崎の鐘」「この子を残して」の
著者だと 思い出しました。こちらに来る前に「長崎の鐘」を読んできました。
永井隆博士は 明治41年島根県生まれ 長崎医科大学で放射線医学を学び
大学病院本館内の自室で被爆。頭動脈切断をいう重傷を負うも 被爆者の救護
原爆症の研究、奉仕活動にあたられた方です。
如己堂 己の如く人を愛す
原爆によって 家も妻も財産も職業も健康も失って ただ 考える脳、見る目
書く手だけをもつ廃人の私を、わが身のように愛してくださる友人が寄って
建ててくださった。そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は
絶えずこの家に注がれ、それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い二人の子供が ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
「平和塔」より
病床に伏してからは 昭和天皇をはじめ、ヘレンケラーなど世界の要人も
お見舞いに この如己堂に訪れたそうです。
浦上天主堂
キリスト教の禁制が解かれ、信仰の自由を得た人々が30年の歳月を
費やし、大正14年に「祈りの家」を完成させた。原爆で破壊されたが
昭和34年に再建 昭和55年に改装して往時の姿に復元された。
昭和20年10月の浦上天主堂
原爆投下後も このような形で 残っていたのですが、
これが教会であることから
世界中のキリスト教徒からの非難を恐れ
モニュメントにならぬよう
米国が撤去を命じたと聞きました。
もしこれが原爆ドームのように残されていたら
核廃絶の大きな力になったことでしょうね
何しろ、マリア様がズタズタにされたのですから・・・・
この後 長崎原爆資料館に行きました。
一昨年は 広島の原爆資料館に
行っているのですが
こちらは 規模は 小さくて 入館者の数は少ないですが
何故か 広島資料館よりも 悲惨さが伝わってきました。
原爆爆発の時刻 11時2分で とまっている時計
館内にも ボランティアガイドさんが たくさんおられて 展示をみていると
どこからとなく 現れて 詳しく解説してくださいました。
さて みなさんは 「長崎の鐘」という歌は ご存知ですよね。
パパが 学生時代に 友人の下宿で聞いた「長崎の鐘」に感動し
テープダビングさせてもらった音源を最近デジタル化したらしいです。
パパの大好きな古関裕而。
この曲が古関メロディーのベストだと言います
「この歌を 実際に自分で長崎に行って撮った写真で 残したい」
パパとしては その思いを実現させるための長崎旅行になりました。
パパ曰く、
「長崎の鐘」はこのVersionが最も荘厳だ、
とのこと
それでは、お聴き下さい