投稿履歴をみてみたら2020年7月31日の記事でした。 心情の変化をトラッキングしておきたいので、アップロードします。

 

約4か月ぶりに東京に戻ることになる。 

今回はおそらくこのコロナ禍という特殊な条件を前提にしてある場所に住むことになる。 

 

妹は今年大学一年生で、本来ならば実家から上京するはずであった。しかしコロナの影響で大学の授業が全てオンラインになってしまった。

こういった環境は少なくとも僕も影響をうけていて、ロンドンへいくのは今は適切ではないと思い、都内某所で働くことを決意した。 

そういったときに、妹がすでに契約していた家が家賃を払いっぱなしの亡霊のようになってしまっているためそこへしばらく住むというわけである。

 

2,3日住んでみると、僕が大学へ入学し、新生活をそこで送り始めたころとだいぶ心情的な違いを感じた。そのころは殆どホームシックに近く、新たな場所を訪れるときに好奇心とストレスが同居していた。 今回はすでに東京に友達がいるということもあると思うが、それよりも生活の仕方がわかっているがゆえに感じる安心感というものがあった。 しかしこの安心感は以前東京に住んでいた場所とは違うから、単に東京だから、という理屈ではないような気がした。 だからどこからこの安心感が湧いているのだろう。 

 

ひとつは、主な生活ネットワークを形成する手段が東京では非常に似ているのではないか。という仮説だ。

ぼくは、東京が非常に多様性をもち、ひとつとして同じ場所がないことの魅力を知っている。 田舎でももちろん同じ駅はないが、東京は駅同士の距離も短ければ、それぞれの駅がそこですんでいる人々の生活様態をアイコニックに表象しているようなイメージがある。 しかし僕が抱いたある種の安心感はこの多様性とは真逆のフィーリングであると思う。 少なくとも僕の頭の中では無意識に、多様性といった幸福的な指標を除いて、ある種生活をするために必要な近隣の住居のネットワークを記号化しているような気がした。

もちろんその代表はコンビニエンスストアや複合型のドラッグストアである。どのような外観をしているかは、関係がない。それ自体を見なくとも、マップでこれらを見つけるだけで安心感がある。といった具合に。 

東京都の整備された住居地区は殆どこの記号化された多くの用途の集積という意味では、どの町でも同じような構成であるのではないかと思う。