きょうふクラブ幽霊部員  安 索尼のブログ -9ページ目

きょうふクラブ幽霊部員  安 索尼のブログ

恐怖という極限状態で出現する人間の本性を見つめる、それが「きょうふクラブ」。
その幽霊部員の安索尼が、恐怖についてあなたに語りかけます。

きょうふクラブの本来の活動からは離れるが、先週、人気ドラマ「家族ゲーム」について触れたのでその続きについて若干意見を述べたい。

大変人気を集めているドラマだったので、普段はほとんどドラマを見ない私も、ついつい見てしまい、昨日の最終回まで欠かさず見た。

最終回では、これまで謎であったことが一気に明らかにされるが、今ひとつ釈然としなかったことがある。

それは、「どうして沼田家はあんなに物分りがいいのか?」ということ。
ドラマをご覧になった人なら、沼田家の家庭崩壊の過程はすべてご存知のはず。最終回で主人公「吉本荒野」が一気にそれを暴露する。それをきっかけに沼田家のメンバーはころっと態度が変わり、ほぼ壊滅状態だった家庭は急速に再建されていく。

「ここが不自然」なのである。
世の中、自分にとって都合の悪い指摘を受けて、それを素直に受け入れ、態度を改めるという物分りのいい態度が取られることなど、皆無とは言わないが相当に稀ではなかろうか?また、仮にそのような改悛があったとしても、それがそう簡単に奏功するだろうか?
現実には、都合の悪い指摘を黙殺したり、または黙殺せず改悛に向かうも、それがうまくいかず、紛糾した事態が継続したり、そんな話を時々耳にする。

否、「不自然さ」を問題にするのは本質ではなかろう。ドラマという虚構の世界においては、デフォルメはつきもの。現実との乖離があることを前提としなければ、すべての表現は「こんなこと、現実にあり得ない」と一蹴されておしまいになる。だから、デフォルメについて問題にしてはいけないのであろう。

吉本荒野が仕掛けた暴力的仕掛けにより、これまでになかった「恐怖」を感じ、それを克服するのは結局自分でしかない、そのことを沼田家のメンバーは痛感し、変貌していく。しかもその変貌の様は鮮やかである。恐怖をきっかけにした「鮮やかな変貌」、本作においては些か教条的で牽強付会の感も否めないが、およそ表現はそのような要素を孕むもの。それをわたしは問題にはしない。デフォルメも含めた表現を、鑑賞者はどう評価するか、これが本質ではないかと思う。

一般的感覚から言えば、
「家族ゲーム」はホラーと考えられないだろう。しかし、極限状態で人間が示す変化をどう評価するか、という点では、先回投稿の繰り返しで恐縮だが、広義においてこれも一種のホラーと言えるだろうと私は考えている。