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1978アルゼンチン・ワールドカップの考察
2022カタールはアルゼンチンが3度目の優勝をしてメッシの大会となった。
1986優勝のマラドーナとメッシは無事に肩を並べる存在となった。
では、1978優勝のケンペスは何故国民的英雄ではないのだろう?
それは、1978大会が「ワールドカップ史上最も汚い大会」と呼ばれる事に起因する。
1978大会3位のブラジル代表リベリーノは「真の王者はブラジルだ。僕らは今大会無敗なのだから」と当時述べている。
当時の日本の雑誌も、1978大会はリベリーノの大会との前評判で、新星「白いペレ」のジーコも大騒ぎであった。(試合の出来が悪いと「白いパウロセザール」と兪やされた)
他方アルゼンチンにはスターも名選手も不在であった。(マラドーナのデビューは翌年1979の日本でのU20ワールドユース初優勝)
また、第2のキューバ危機と言われた軍事政権下のアルゼンチン危機を回避するためにも、米国はアルゼンチンを優勝させて国民の歓喜で不満を抑える必要があった。
暗躍したのはFIFAのフィクサーの米国キッシンジャー元国務長官(ドイツ系ユダヤ人でロスチャイルド家の代理人)。
ライバルのリベリーノ・ベッケンバウアー・クライフを葬り去った。
クライフは、1974大会の雪辱を期していたが不参加(クライフ死の直前に実は自宅でクライフ夫婦が銃撃監禁され、子供が誘拐拉致された事を、もう時効だからと述べている。)
ベッケンバウアーは米国のニューヨーク・コスモスに1975年に移籍しており米国の管理下に居た。ワールドカップの連覇を狙っていたが、ドイツ代表は大会前の合宿・親善試合の招集をかけたが、ニューヨーク・コスモスは、合宿・親善試合の参加は不可、本大会のみ許可との回答で、ベッケンバウアーは参加を断念。(米国CIAとロスチャイルド家の代理人のキッシンジャーからの圧力があった)悔しかったベッケンバウアーは自信があったので1982大会でのドイツ代表復帰を本気で検討していた。
厄介だったのが、優勝候補筆頭のブラジル代表リベリーノ、露骨な妨害工作をすると今度はブラジル国内が暴れだす。ブラジルは初戦スゥエーデンに2-1で勝利してしまう。キッシンジャーの審判買収が功を奏して後半45:08のジーコのゴールは取り消されてしまう。
ブラジル代表は1978.03~05の合宿・ヨーロッパ遠征親善試合(対フランス代表、西ドイツ代表、サウジアラビア代表、インター・ミラン、イングランド代表)で、10番リベリーノ(フルミネンセ)、8番ジーコ(フルミネンセ)、5番トニーニョ・セレゾ(アトレンチコ・ミネイロ)、の中盤黄金トリオが無双していた。
しょうがないので、リベリーノ外し。グループリーグ第2試合で足を怪我した事にして試合に出すな。との指令をエルネスト・ガイゼル(ブラジル大統領)☞コウチーニョ監督☞リベリーノに伝えた。やむなくリベリーノは記者の質問に苦し紛れの「足はまだパンパンにはれあがってて辛いけど、僕はすぐにでも出たいんだよ」と述べているが、アルゼンチンが決勝進出を決め、ブラジルの3位決定戦でようやく出場を認められ、華麗なプレーを披露して勝利に貢献しているが。もう、嫌になっちゃってブラジルを離れて親善試合で親睦を深めたサウジアラビアへ移籍した。
クライフ・ベッケンバウアー・リベリーノの排除にキッシンジャーは成功したが、まだブラジルは強くアルゼンチンは審判買収しても弱い。
決勝進出をかけた2次リーグ最終戦のアルゼンチン×ペルー戦、ブラジルが強すぎるのでペルーに4点差をつけて勝たなければならない絶体絶命に追い込まれたアルゼンチン代表、一方のペルー代表は、ペルー代表史上最高の選手のセンターフォワードのグビジャスを擁する。
0-0(対オランダ)
4-1(対イラン グビジャス3得点)
2次リーグ
0-3(対ブラジル)
0-1(対ポーランド)
いくら審判買収していても4点差以上でペルーに勝ってのアルゼンチン決勝進出は絶望的と全世界とブラジル国民に思い込ませておいて、
米国とキッシンジャーは最終手段の実行に踏み切った。
ペルー代表選手ベラスケスの暴露によると八百長はアルゼンチンのビデラ大統領とペルーのベルムーデス大統領の間で決定した。ペルーのカルデロン監督はセンターフォワードが一人もいない布陣とした。試合直前に、ペルーのロッカールームにアルゼンチンのビデラ大統領が選手激励に訪れている。また、米国キッシンジャー元国務長官も同席した。ペルーのロッカールームにおいてアルゼンチンのビデラ大統領がペルーのベルムーデス大統領の祝辞「我々は同盟国だ。アルゼンチンが優勝しなければ、大変なことが起こる」と読み上げた。キッシンジャーはアルゼンチン優勝で東西冷戦の均等を希望した。ベラスケスは、「多数が買収されて八百長をした」と、実名を述べている。
クライフは死の前に暴露した。
ペレはベッケンバウアーと1975からニューヨーク・コスモスのチームメイトで全てを知ってるが、語らずに亡くなった。
キッシンジャーは99才の高齢だが白状しないだろう。
キッシンジャーが亡くなれば、ケンペス、リベリーノ、ジーコ、ベッケンバウアー、グビジャスは暴露するだろうか?
出典
wikipedia
onze
kicker
サッカーマガジン
イレブン
先日2010/12/28 伝説の70年代日本ロックシーン「"日本語ロック論争"ROCKのメジャー化」がBS2で再放送された。これは2008公開の「ロック誕生 THE MOVEMENT 70’S~ディレクターズ・カット」の編集版でDVDで発売もされている。
これを見ると四人囃子が1970年代の代表的なロックバンドである事が検証できる。自分も1975発売のシンコーミュージック「3大ギタリストの追跡」の中で名ギタリスト紹介のページで日本のトップで森園勝敏が紹介されてたのを思い出す。
1969年岡井大二(Dr)と武蔵丘高の森園勝敏(G)が出会う、森園は都立家政駅前に住んでいたが、学区群制度で残念ながら鷺宮高には当たらなかった。
1971年の体育館ライブは群ようこの小説「都立桃耳高校」に詳細に紹介されているが、ミュージックライフのメン募で学習院高の中村真一(B)とでトリオバンドを結成するも3人とも演奏に長けていたため「ライブクリーム」のインプロビゼーションを延々と演奏するもゲストボーカルを入れてZEP1stの「グッドタイム・バッドタイム」・「コミュニケーションブレイクダウン」を演奏するが、演奏レベルは既にプロ級であった。この当時には森園は鷺宮高に転校している。
練習は岡井の自宅と新宿御苑スタジオで、杉並公会堂のライヴ、東大の学園祭でプロデビューし、LP「一触即発」で日本を代表するロックバンドとなり1975年ディープパープル、1977年エリッククラプトン(森園のプリズムで)1978年レインボーのオープニングアクトに抜擢されている。
(以上敬称略しました。)
※ 我々が3年になった昭和46年の事です。
このときのバンドに参加された同期の方々から当時の貴重なお話を直に伺うことができました。当時の軽音部、凄かったようですね。