武蔵のことを正しく伝えるほぼ唯一の文に、「小倉碑文」と言われる文があります

これは福岡県の小倉(北九州市小倉北区)の手向山(たむけやま)公園のはるかに巌流島を望む場所に建てられた石碑に刻まれた文です

「孝子つつしんでこれを建てる」、というので、武蔵の息子の宮本伊織が武蔵が亡くなって10年ほど経って建てたものです

この文の最初に「臨機応変(りんきおうへん)」と書いています 武蔵の兵法の最大の特徴です

その場の状況に応じて、対応を変える、というのです

 

武蔵は60回ほど戦って、一度も負けたことがありませんでした もちろん体力や武術に優れていたのですが、おそらく負けることがなかったのは、その戦術にあったと思われます

 

佐々木小次郎(小倉碑文では「巌流」と書かれています)は剣術に優れ、しかもその剣は三尺というので、90cm以上の長いものです

普通に戦っては勝てません

このために、さまざまな作戦が物語となって語られました

武蔵がわざと決戦の場所に遅れて、小次郎をいらだたせらという心理戦や小次郎より長い木刀、船の櫂を削って作ったとか、武蔵の作戦を想像しました

小倉碑文には、巌流(小次郎)は真剣で勝負を挑んだが、武蔵は最初から木刀で勝負すると伝えていたとします 実際には小次郎が剣の技を尽くしたけれど、武蔵は一撃で殺してしまった、と書かれています

 

三尺を越える長い木刀で一突きで倒したのかもしれません

「小倉碑文」に、両者「同時同所」と書かれることから、武蔵は遅れなかった、と考える人もいますが、これは対戦の決まり文句で結局対戦するには、「同時同所」でなければならないのは当然です

 

でも、巌流島というのは変わった場所だと思います

昔の豊前(福岡)と赤間(山口)の間、関門海峡の中の舟島という小さな島で決闘しようというのです

現在の島は近代の護岸、造成で往時のようすはよくわかりません 江戸時代の絵図には砂浜の小さな小高い山が描かれています 広々とした平地は少ないので、浜で戦ったと思われます

 

砂浜では足の動きが止まります 小次郎は剣の技を封じられたのではないでしょうか

そこに武蔵は長い木刀で討ち取ったのかもしれません

 

関門海峡は川のように流れの速い海峡です 武蔵は自分が仕立てた船で決戦の場所に向かったと伝えます そのために決闘に遅れたのか

ただし、昔は正確な時間を伝える手段がない、とくに海の中の島では時間を測りようがないので、現在の感覚で待ち合わせはできません

 

ただし、海峡の速い海流を使って、逃げることはできるかもしれません

小次郎の弟子たちが武蔵を追ったそうですが、時間によって潮の流れが変わるので、それを利用した可能性はあります

 

このような場所を武蔵が指定したとすれば、それも小次郎に勝つための戦法の一つだったと思います

 

臨機応変というには、準備ができている気もしますが、「勝つ」ためにさまざまな手立てを尽くすことがうかがえます

 

学習は武蔵の決闘のようなものではありませんが、やはり手立てを尽くすことは必要でしょう

どうすれば学習を攻略(習得)できるか、考えることは重要です

 

武蔵はただ剣を扱うだけでなく、決闘の状況を想定して、戦い方を考えています

そういえば、二刀流というのもなかなか、ほかの人では思いつかないことです

 

兵法も学ぶべきことはありそうです