男達は2人とも便の臭いを消す薬を飲んでいる。
潔癖症の気もある。
そうして、たとえ愛していても女を抱く事は無い。
それはどういうことか。
恐らく幼少時に、便に対してのかなりの嫌悪感を植え付けられているのではないのだろうか。
幼児にとって、自分の排泄物は自分の一部であり、一部である以上自分にとって大事なものである。
それを否定されること、嫌悪されることは、「自身への否定あるいは拒否」ということである。
それをそのまま持って成人したとき、男はセックスへの嫌悪感を抱くだろう。
当然ながらセックスは、お互いの痴態をさらし、あらゆる体液にまみれる行為である。
だからこそ相手を選ぶのである。
自分の一部である体液を他人と共有する。
自分に嫌悪感を持っているのであれば、それはありえない行為ではないのだろうか。
根本を求めれば、自分がその行為の末に生まれたのだというのに。
意識の水面下で、自分の出生自体を否定しなければならない悲しさ。
顕在化した意識の上で、それは形を変えて顕れる。
死を目前にした時に、人はただ自分の欲望だけを消化できるようになる。
それは、欲望だけを消化しようと思っても、
人は生死の見えない将来の為に生活しなければならないし、
生活の為には社会に存在しなければならない。
近い将来必ず死ぬとなったとき、人は生活する必要がなくなり、初めて自分の欲望と対峙できるのではないか。
ストーカーの男・道郎は末期癌に冒されている。
カメラマンの観察眼を持った故に、女も同じ病気であると気がつく。
いや、それ以上に女を見ていたのだろう。
アルバムに収められた写真は、女の一瞬の表情を捉えて離さない。
日常のささやかな1コマ。
誰も見ていない女の表情。
男はカメラを持っていなければ、まぶしそうに目を細めて見つめていたに違いない。
それは「愛しい」ものを見つめる目。
愛しさに溢れる写真。
そして、男は女にも欲望があることにも気が付く。
女・りん子の願いは、ただ一つ。
夫に抱いて欲しいだけ。しかし伝えることはできない。
そうして夫はりん子を愛していても、抱く事はない。
募る思いは暴走を始める。
そして、道郎は夫婦の欲望を開放させる。
りん子がカウンセラーとして道郎を開放したように。
たった一つの望みを叶えるために。
「どうして俺が気がついて、側にいるお前が気がつかないんだよ!」
他の人では代わりにはならない。
欲しいのはただ一人。
「修道女に乳癌が多いのは禁欲生活のせいだってな。りん子は修道女じゃねぇ!」
自分が代わりにならないのもわかっている。
それでも止めることはできない。
「何で切らないんだよ!」
道郎の怒りはりん子の思い。
愛したい、愛されたい。
2人は鏡のように映しあっている。
そして、愛することができないもう一人の男、夫の重彦。
「じゃあ…地獄で、待ってる」
「あたしも、すぐに行くよ」
世は地獄、地獄で花咲く恋もある。
肉体があっては結ばれない愛情もある。
たった一つの救いは、りん子の思いが成就したことか。
それは刹那的ではあるかもしれないけれど。
願いは叶う。
それは自分の命と引き換えにした思い。
重彦が愛せるようになった時には、もうりん子の命は消えかかっているが。
それでもただ
それでもいいと恋は言うのだ
(記 2007.1.6)