前の記事(親が退院した)にちょこっと関連してだけど



親のことを他人だと思えばこんなに不憫な事は無いって書いた事に対して、「じゃあそう思って接したらいいじゃん?」って自分でも思う


だけど、人生の中で自分の意思で決めた大事な事は絶対に曲げないって決めている中で

「他人に不憫さを感じて気を遣ってあげる」と、「もう自分の中で関わりたくないと決めた親に寄り添う事になる」って言う二項が両立しちゃう事

そしてそれで「やっぱり私たちの子どもは親思いなんだね」的な勘違いをされる事にものすごく抵抗を感じているのが現状


そしてそのきっかけはやっぱり進路に関するトラウマがある


そのトラウマの内容は昔話で書くとして、あの時に1日でも早く家、そして地元から出てその後は1人で生きていくし、その上で自分の判断で決めたことについては後悔もしないって決めたのね



あの時心底苦しんで、本当に死のうと思ったり、一時期自傷もしたりして、でも私はここにいて生きると決めたから、家を出てからは何人にも私の人生邪魔をさせないし、自分で決めた事は絶対後悔しないしやり抜くって決めて今日まで生きてきた



だからそこからの選択について一切後悔なんてないし、だからこそ親への連絡頻度を高める事はまた自分の価値観の根幹を揺るがす事になるから悩んでる



これは捻くれてるんかな?それともこれに共感してくれる人はいるのだろうか。。

兄弟には捻くれてるって思われてそうだけど、そこに至るプロセスは自分の中では至極真っ当なんだよね。。。


誰にも言えないからここで書いてみるけど、誰かと話したいという若干の矛盾笑