いつもブログに来ていただき有難うございます😊
さぁ、長くなりましたこのシリーズ
10回分くらい書けるのかなぁ?と思いますが、日が経つにつれて何話したか思い出せなくなりますね😅
【理解されるということについて】
線維筋痛症ではないのですが、慢性痛のある参加者の方が
「理解されないから辛い」というのは間違っていると思う。
という発言をされました。
言葉って難しいなと思うのですが…理解されないから辛いかどうかは別として、理解されることは大切なことだと私は思っています。
発言されたご本人は、ご自身の病気や症状に関して周囲に理解は求めてないし辛くもないということなのですが…
よくよくお話を聞いてみると、なんとなくニュアンスの違いなのかなと感じました。
そもそも、理解とは何かという話になるような気もしますが😅
線維筋痛症というのは見た目にも異常はなく、一般的に行われる検査値にも異常がなく、基本は圧痛点で診断されます。
客観的検査は今のところないですし、痛みも疲労も目には見えません。
本人が辛いと言えば辛いのでしょうし、動けるというのなら動けるのでしょう。
まぁ、こういう曖昧なところが誤解を招くわけなのですが。
なんで理解が必要なのかなと改めて考えてみたときに、線維筋痛症患者さんというのは否定的な言葉を言われ続けたからじゃないかなと思うわけです。
例えば、骨折したとか関節リウマチがあるとか癌があると言えば訴える症状は認めてもらえるわけですね、多くの場合。
だって、痛みがあることが容易に想像がつく病気ですからね。
だけど、線維筋痛症と診断される前や 診断されてからも病名に馴染みがないとその痛みは認めてもらえないことがあるわけです。
共感されないとか、そういうレベルではなくて「痛いはずがない」というような、否定をされることもあるわけです。
特に画像や検査値にこだわる医師に当たった日には、気のせいと言われることもあるわけですね😱
まぁ、悪気はないのは分かるんです。
分かるんですけど、正常な精神の持ち主なら
「これって私がおかしいのだろうか?」
と思えてならないと思うんですよね😭
運動もしてないのに「筋肉痛です」と言い切られた日には、だいぶブチっとキレましたけど(笑)
冷静になってみると、本当に私がおかしくなったのかと思いましたよ。
みんな首をひねってうーん。という。
最初は頭にくるだけの事なんですが、次第に本当に自分が変なんじゃないかって気にさせられてくるんです。
そう言われたわけじゃないけど。
だから、痛みの存在を理解された時、否定され続けたように感じた心が解放されたような感じだったんですね。
首を捻らない先生に会った時、安心したんです。
こういう人、いっぱいいるよって言われて、あぁ気のせいじゃなかった、正気だったんだと。
私は大して酷い言葉は浴びてないし、家族は理解して、分かってくれていたのでそこまでこの件に関して悩んでいないのですが
思い込みでこんな症状でるのか?と本気で考えていました。
振り返ってみても、なんであのタイミングで急激に悪くなったのか分からないんですよね…
徐々に痛みが強くなったのではなくて、30くらいから突然80くらいにつき上がったもんで。
しかも特に誘因なく。
精神疾患かと思って精神科の先生にも相談しましたが、もちろん否定されて😓
まぁ、こういったことが他の患者さんの話を聞くと積み重なって理解が大切だと思うようになったのだと思います。
この記事を書いていて思ったのですが、
【理解がいるのは、周りの援助が必要であることを知ってもらいたいから】
かなという考えに至りました。
援助というと大げさなことかもしれませんが、配慮という方がまだ適切かもしれません。
例えば職場での業務に関してとか、日常生活における手助けとか。
今こうやって文章にして思ったことなのですが、
なんというか…『理解』と『分かる』は別のことだと思うんですね。
多分、みなさんそれをごちゃごちゃにしているんだと思います。
日本語的にあってるかちょっと分からないし、私の中の使い分けなのですが…
分かるというのは、共感したり労ってくれたり支えてくれたりという心の寄り添いに近い感じ。
理解というのは、状況を知って配慮の必要性を感じてくれることというか表面的なことです。
最初に言った、参加者の方の発言はつまり
『分かってもらえないから辛いは間違っている』
なのかな、と思うわけです。
それでも、分かってもらえるに越したことはないと思うんですけど😅
特に家族や身近な人にはね。
でも、職場や世間的には分かってもらえなくてもいいのかなぁ〜と思います。
大切なのは理解の方かと。
というのも、私の上司は私のことや病気をきちんと分かっているとは思えません(笑)
ただ理解はしてくれています。
私に配慮が必要だということは承知してくれています。
その上で、必要な配慮をしてくれるわけではなく、申し入れて受け入れてもらうという感じです。
なので分かってくれてなくても問題ないわけです。
理解だけで十分やっていけています。
例えば、誤解を恐れずにいうと、体調が悪いとき、私自身が辛いというより患者さんに申し訳ないという思いがあります。
なので、パフォーマンスが落ちているという時は、ある一定のレベルで必ず代わってもらうようにしています。
身についていることなので、多分やればできます。
なので私が出来ないというよりは、すべきでないと感じるからです。
その私の思いは分かってもらえてないなと思うことは多いけど、理解してもらえてるから代わってくれます。
「私が辛いから変わってほしい」と思われていると思うので、そこは分かってもらえてないということです。
でも、代わってくれるということは、その時の私には手助けが必要だと理解してくれていることに変わりはないわけです。
私が必要としているのは、なんで変わってほしいかを分かってほしいというわけではなくて、
手助けが必要だという理解なんですね。
なので、分かってもらうに越したことはないですが、理解してもらえれば十分過ぎるということです。
重ねて言わせていただきますが、私は患者さんに不利益を被るような仕事や勤務はしていませんのでご理解下さい。
踏み入った話しになったような気がしますが😅
連続してこうやって文章に起こすことで、自分の考えを整理できている気がします。
記事は座談会で実際にお話ししたことプラスアルファなのですが、プラスアルファの部分が大きい気がします(笑)
あっという間に2時間経ちましたからね、座談会。
またそういう機会があればいいなと思います😊
お互いが顔晴るために🍀
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