恐らく母ははるちゃんが入院したその日にある程度の説明を受けたんだとおもう。心臓に先天性の疾患があること。
ダウン症の可能性が高いこと。
そして・・・
「1歳までは生きられない」こと。
一番最初の入院は早めに退院してきた。(それでも1ヶ月。)
母は私に当時言っていないことがあった。
それは検査結果がどうであれどこからどう見てもダウン症であり、「はるちゃんがダウン症だ」という事実。
私ははるちゃんは、心臓の病気で入院しているんだとしか思っていなかった。
入院中は、初めての鍵っ子(今は言わないのかな?鍵っ子なんて)になった。お家の人が働いてる友だちは鍵っ子だったから少し憧れていた。
けど、鍵っ子の魅力も2日ほどで輝きを失った。
友達と遊べる時は遊んだ。
でも、5時のチャイムで解散なのだ。
そして、ここからが長かった。
病院の面会時間は20時まで。母はこの時間目一杯使ってはるちゃんと面会していた。
当時は「お母さんだけいいな、はるちゃんと一緒にいられて。」そう思いながら暗くなってくる外を不安な気持ちを紛らわすために音大きめにつけたテレビで誤魔化す。
暗い夜は、やっぱり小学生低学年だった私にとって(当時2年生)怖かった。外で車のクラクションがなると怯え、天気が悪ければそれでも怯えていた。
小学生には夕飯の支度もまだ出来ないし、本当にやることが無く、ただただお母さんが帰ってくるのを待つのが日々の過ごし方だった。
お母さんが帰ってきて、「ごめんねー、遅くなっちゃったね!お腹すいたかな?すぐご飯にしようね!」と明るく入ってくる。
でももう、恐怖の谷のドン底で怯えきっていた私はそれどころではない。
痛いくらいに強くお母さんを掴んでしがみついた。「怖かった、真っ暗で怖かったよ!早く帰ってきて欲しかった!!」駄々っ子のように泣いていた。
大人になった今、考えると母のその時の心の中は辛い気持ちでボロボロだっただろうと思う。
長女は1人で留守番できるが、夜だから怖いと言って泣いていて、やっと生まれた下の子は病気、障害。行く行くは手術をしなければならない。旦那はちっとも協力的ではなかった。(私から見て父親のこと)
小学生の私も、母も、妹もみんなとっても頑張っていた。
母は毎日面会には行かなかった。
市民病院なら遠くないが、子どもの専門病院に回されたのだった。また、信じられない話だが、当時はまだ偏見や差別が医師間であったのだ。
「ダウン症か、気持ち悪いな。家族も荷物抱えて大変だな。」それをたまたま面会に行った祖父が聞いて(前にも書いたが祖父は医者)「お前を首にしてやるぞ。医者という仕事をなんだと思ってる。今の発言は誰に向けたものであっても許されない」昭和の男の祖父は怒ると怯えるくらい怖かったというのが昔の私の記憶。
医者は最初祖父をただの年寄りだと思って言い返していたが祖父が最後に「ここの院長とは仲が良くてな。講師仲間。要は私も医者だから。市内で開業している。今後の自分の身を心配しておけ、このバカもんが!」と怒鳴りあいになったらしい。
妹の病状もあったのだが、とにかく家からは遠い病院へ変わった。
家にいてくれる日は、手作りのおやつを作って、家を綺麗にして、私の帰宅を待っていてくれた。そして、私との時間を持ってくれた。
今思えば、休みたい日だってあっただろうに、サボることなく、休むことなく子どもたちのために、家のために尽くしてきていた。
その中で少しずつ私も家事を叩き込まれてきた。
簡単な掃除。
簡単な味噌汁のとぎ方。
お米のとぎ方。
「今度から、これをやっておいてくれると助かるし、これしてる間はやることがあるから怖いことなんてないよ!」
そうやって日々私も成長していった。