自分を表現することと、
自分を伝えることと、
自分をわかってもらえることと、
自分が伝わることは、
全部意味が違って来る。
自分を自由に表現したいと思って、自分を伝えたって、
自分をしっかりわかってもらって、自分が伝わるかどうかはわからない。
自分をわかって欲しい。
寸分違わず、意味を、背景を、自分という存在を、まるごと理解して欲しい。
という自分勝手ってな願いだけではなく、
自分をしっかりわかってもらえる表現も必要なんだと実感していたりします。
「そんなつもりはなくって。。。」
そう思っていたって、誰かの中でフィルターを通って、そうなっていたら、それはそうなんだから。
そんな風にすれ違うことが嫌で表現することを控えてしまう自分もいますが、
でも、自分を表現したかったり、その表現を必要として待ってくれている人に届けたい自分もいます。
昔から、無難に、害なく、遠回しに、適当なことを、極力誰にも迷惑をかけない様に、へらへらと笑って生きて来た自分でしたが、
それは逆に言うと、誰にも影響のない、無責任で、無難な、自分が傷つくことを避けたものでした。
昔のそんな生き方は嫌だし、どこかで、自分を偽った表現もできなくなっている自分だと気づいたんです。
何かを伝えなくったって、わかってもらえたら嬉しいし、生き様から感じてもらえたら嬉しいし、そんな関係性の構築ができていたら嬉しいです。
でもそれは僕が一方的に強制できるものじゃない。
だから僕は僕にできることをやり続けるだけやって、
後は、お任せするしかできない。
それで無理だったってことは僕の伝える力不足であり、関係性の構築力不足なだけ。
これが読めるってことは、何かの縁があるってことだし、僕は自分を伝えることをし続けたいってことだし、わかってもらえたらもちろん嬉しいということ。
もちろん、最近、直接お会いしている人もいれば、最近はお会いしていない人も多くいます。
そして、先ほども書いたように強制できるものではないし、何を考えているんだろうと不快な気持ちにさせてしまうかもしれないです。
もしそれでもよければ、受け取ってもらえても、ただ見ててくれても、
理解してくれても、応援してくれても嬉しいです。
ありがとうございました。