ピンチョンの小説の魅力は「分からない」ことにある。歴史、科学、芸術、ポップカルチャーが入り混じり、そこに擬似的な嘘が加わっていく。

 

 ホルンがソロを吹くあいだ、マクリンティック・スフィアは弾き手のないピアノの脇に立ち、何を見ているともなく遠くに視線をやっている。意識は半ば音楽に向かい(指がときどきアルトサックスのキーに触れるのは一種の魔術で、ナチュラル・ホルン演奏を違う方向に、スフィアにとってベターな方向へ導こうとしているのだろうか)、半ばテーブル席の客のほうに向いている。(小山太一+佐藤良明 訳、新潮社)

 

 マクリンティック・スフィアはアルトサックス吹きで、ビバップの演奏をしているのだが(オーネット・コールマンのようにフリーの演奏という説もある)、そのバンドにはナチュラル・ホルン奏者がいる。ナチュラル・ホルンでモダンジャズを演奏することは不可能で(ナチュラル・ホルンにはバルブがなく音階が吹けないため)、ピンチョンもそんなことは承知である。こうした知性の遊びを面白いと思える人だけが、ピンチョンの小説を読み通すことができる。

 

 小説のテーマが何であるのかも分からない。ファショダ事件(1898年)、フィレンツェのベネズエラ領事館に対する暴動(1899年)、マルタ島での第一次世界大戦後の騒乱(1919年)、旧独領南西アフリカでの黒人の反乱(1922年)などの様子が描かれ、そこに「V」を名前の頭文字に持つ女性が登場し、それらの女性が実は同一人物なのではないかという仕掛けが浮かび上がるのが小説の構造になっている。ただ、そこに明確な意味を見出すことはできない。陰謀論のように関係だけが仄めかされ(煙の立つところに「V.」がいる)、確かなことは何も分からない。

 

 物語はプロフェインという主人公が職に就かずに放浪する1955~56年現在と、そこに登場するステンシルによる「父親の人生についての回想」という形をとっている。現在の時間軸と、歴史的時間軸が交互に語られながら物語が進んでいく。歴史的時間軸に現れたエピソードが現在の時間軸に繋がっていることを発見できることも、この本の楽しさである。ピンチョンはそうしたことにスポットライトを当てないので、読者が自分で注意深く証拠合わせをしていく必要がある。

 

 この本を読むときにはノートを用意して、年号、場所、登場人物をメモする必要がある。面倒なようだが、それを行うだけである程度は読める。そうやって一度通読したら、あとは再読を繰り返せばいい。登場人物の名前をすべて覚える頃には、この小説の小宇宙を存分に楽しめるようになっているはずである。ディテールまで考え尽くされた世界を、小山太一氏と佐藤良明氏が作者と同様の注意力を持って日本語に再現してくれている。Welcome to the world according to Pynchon!