[一] 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。


 しかしながら、無限の更新を続ける情報には「清書」や「仕上がる」というような価値観や美意識が存在しない。無限に更新され続ける巨大な情報のうねりが、知の圧力として情報にプレッシャーを与え続けている状況では、情報は常に途上であり終わりがない。

 一方、紙の上に乗るということは、黒いインクなり墨なりを付着させるという、後戻りできない状況へ乗り出し、完結した情報をeジョウジュさせる仕上げへの跳躍を意味する。白い紙の上に決然と明確な表現を屹立きつりつさせること。不可逆性を伴うがゆえに、達成には感動が生まれる。またそこには切り口の鮮やかさが発現する。その営みは、書や絵画、詩歌、音楽演奏、舞踊、武道のようなものに顕著に現れている。手の誤り、身体のぶれ、鍛錬の未熟さを超克し、失敗への危険に臆することなく潔く発せられる表現の強さが、感動の根源となり、諸芸術の感覚を鍛える暗黙の基礎となってきた。音楽や舞踊における「本番」という時間は、真っ白な紙と同様の意味をなす。聴衆や観衆を前にした時空は、まさに「タブラ・ラサ」、白く澄みわたった紙である。

 弓矢の初級者に向けた忠告として「諸矢を手挟みて的に向かふ」ことをいさめる逸話が『徒然草』にある。標的に向かう時に二本目の矢を持って弓を構えてはいけない。その刹那せつなに訪れる二の矢への無意識の依存が一の矢への切実な集中を鈍らせるという指摘である。この、矢を一本だけ持って的に向かう集中の中に白がある。                  (原研哉『白』)

〔注〕○タブラ・ラサ──tabula rasa (ラテン語) 何も書いていない状態。


(五) 「矢を一本だけ持って的に向かう集中の中に白がある」(傍線部オ)とはどういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)


まずは漢字から。eは「成就」。東大の漢字は基本的なものばかりだ。


では、傍線部オだが、二つの点を説明する必要がある。一つは、「矢を一本だけ持って的に向かう集中」がどういうことかを説明すること、そして、「~集中の中に白がある」ということで、何をいいたいのか?「白」は何を意味するのか?、「本文全体の論旨を踏まえた上で」説明することである。


まず、「矢を一本だけ持って的に向かう集中」とはどういうことか?失敗しても次の矢があると思えば、油断して集中力を欠いてしまう。そこで、あえて一本の矢を持つことで、「無意識の依存」を断った「切実な集中」を作り出すのである。


さらに、「『本番』という時間(時空)が「真っ白な紙」であり、「白く澄みわたった紙」であるという記述に注目したい。これが「後戻りできない状況」であり、矢を一本だけ持つことで、意図的にこの時間(空間)が作り出され、「切実な集中」を生み出すのである。


すると、「矢を一本だけ持って的に向かう集中」とは「あえて矢を一本だけ持って的に向かうことで、一回切りの本番という時間を意図的に作り出し、無意識の依存を断った切実な集中」となる。


次に、「白」を「本文全体の論旨を踏まえ」て説明することになる。もはや「白い紙」ではなく、「白」であることに注意しよう。それは、「白い紙」を抽象化し、その意味するところを抽出しているのである。

そこで、「本文全体」で「白」と記述されていた部分を振り返ってみよう。

白は、完成度というものに対する人間の意識に影響を与え続けた。」(http://ameblo.jp/gendai-bun/entry-10383322239.html

このような、達成を意識した完成度や洗練を求める気持ちの背景に、白という感受性が潜んでいる。

http://ameblo.jp/gendai-bun/entry-10384355827.html

すると、「白」は「人間の意識に影響を与え」、「達成を意識した完成度」「洗練を求める気持ち」の背景にある「感受性」として位置づけられているのがわかる。

そして「本文全体」を通じて繰り返されているキーワードは「不可逆性」である。「白」は後戻りのできない「不可逆性」の象徴でもある。

すると、「白は、後戻りのできない不可逆性を前に、達成を意識した完成度を求める感受性」だということがわかる。


以上のことを踏まえて、解答を作ってみよう。


あえて矢を一本だけ持って的に向かうことで、本番という時間を作り出し、後戻りできない状況の中で、無意識の依存を断ち、切実な集中を維持することで、不可逆性を前に、達成を意識した完成度を求める白という感受性を持つことができる、ということ。


東大の記述問題は作文とは違う。あくまでも本文に即していることが第一だ。「表記についても考慮する」というのは、わかりやすさ、文章として筋が通っているかということ。そのことを誤解しないようにしよう。






[一] 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。


 現代はインターネットという新たな思考回路が生まれた。ネットというメディアは一見、個人のつぶやきの集積のようにも見える。しかし、ネットの本質はむしろ、不完全を前提にした個の集積の向こうに側に、皆が共有できる総合知のようなものに手を伸ばすことのように思われる。つまりネットを介してひとりひとりが考えるという発想を超えて、世界の人々が同時に考えるというような状況が生まれつつある。かつては、百科事典のような厳密さの問われる情報の体系を編むにも、個々のパートは専門家としての個の書き手がこれを担ってきた。しかし現在では、あらゆる人々が加筆訂正できる百科事典のようなものがネットの中を動いている。間違いやいたずら、思い違いや表現の不的確さは、世界中の人々の眼に常にさらされている。印刷物を間違いなく世に送り出す時の意識とは異なるプレッシャー、良識も悪意も、嘲笑も尊敬も、揶揄も批評も一緒にした興味と関心が生み出す知の圧力によって、情報はある意味で無限に更新を繰り返しているのだ。無数の人々の眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に限りなく接近し、寄り添い続けるだろう。断定しない言説にcシンギがつけられないように、その情報はあらゆる評価をdカイヒしながら、文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続けるのである。明らかに、推敲がもたらす質とは異なる、新たな知の基準がここに生まれようとしている。         (原研哉『白』)


(四) 「文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続ける」(傍線部エ)とはどいうことか、説明せよ。(解答欄:13.5cm×2行)


まずは漢字から片付けておこう。c「真偽」、d「回避」となる。東大の漢字は基本的なものばかりだ。


傍線部エで説明したいのは、「文体を持たないニュートラルな言葉」とはどのような言葉なのか?ということと、それが「知の平均値を示し続ける」というのはどういうことか?ということである。


しかし、その前に、「・・・示し続ける」主語が「その情報」であることを確認しておこう。


では、「その情報」とは何か?それはインターネットの情報である。この言葉をきちんと補って説明するようにしたい(ネットの情報も可)。これを欠いてしまうと、何の話かわからなくなってしまうからだ(この語句がない場合は減点される)。


さて、そこで次は


「文体」というのは、「専門家としての個の書き手」が担ってはじめて生まれてくる個性のようなものである。それを持たないのは、「あらゆる人々が加筆訂正できる」からであり、個性としての文体を持たず、誰にでも合うような、中立的な語られ方をするのである。


すると、「文体を持たないニュートラルな言葉」とは、「あらゆる人々が加筆訂正できるインターネットの情報」とするとよい。


次は、「知の平均値を示し続ける」。そこで注目したいのは、「知の圧力によって、情報はある意味で無限に更新を繰り返している」という部分だ。


ここではインターネットの話をしているわけだから、「・・・示し続ける」という部分は、「無限に更新を繰り返している」と考えることができる。


では、「知の平均値」はどう言い換えることができるだろうか?そこで注目したいのは、「皆が共有できる総合知」という部分だ。


「共有できる総合」的なものであるという記述が、ここでいう「平均値」の説明として妥当である。


すると、「知の平均値を示し続ける」というのは、「皆が共有できる総合知の更新を無限に繰り返す」とすることができる。


以上をまとめると、


あらゆる人々が加筆訂正できるネットの情報で、

有できる総合知の更新を無限に繰り返す、ということ。


(「ネットの情報をあらゆる人々が加筆訂正し、~」も可)


となる。

[一] 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。


 白い紙に記されたものは不可逆である。後戻りが出来ない。今日、押印したりサインしたりという行為が、意思決定の証として社会の中を流通している背景には、白い紙の上には訂正不可能な出来事が固定されるというイマジネーションがある。白い紙の上に朱の印泥いんでいを用いて印を押すという行為は、明らかに不可逆性の象徴である。 

 子供の頃、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒い墨で白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく発露し続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。取り返しのつかないつたない結末を紙の上に顕あらわし続ける呵責かしゃくの念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない行為の痕跡こんせきを残し続けていく。紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を累積していく様を把握はあくし続けることが、おのずと推敲という美意識を加速させるのである。この、推敲という意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきたのではないかと思うのである。もしも、無限の過失をなんの代償もなく受け入れ続けてくれるメディアがあったとしたならば、推すか敲くかを逡巡する心理は生まれてこないかもしれない。 (原研哉『白』)


(三) 「推敲という意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきた」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

                                (解答欄:13.5cm×2行)



ここでまず明らかにしたいのは、「推敲という意識をいざなう推進力のようなもの」が一体何であるか、ということである。


ここで「推進力」は、「加速させる」さらには「上達のエネルギー」とも対応している。

すると、


「推敲という意識をいざなう推進力」

         ∥

取り返しのつかないつたない結末を紙の上に顕あらわし続ける呵責かしゃくの念

白い紙に消し去れない過失を累積していく様を把握はあくし続けること

であることがわかる。

つまり、「白い紙に消し去れない過失を累積していく呵責の念」となる。

では次に、「紙を中心としたひとつの文化」とは、一体どのような文化なのだろうか?

すると、それは例えば、朱の印泥を用いて印を押すなど、白い紙に押印したりサインすること、ペンや筆で、思索を言葉や活字として白い紙の上に定着させること、習字の練習で、黒い墨で白い半紙の上に文字を書き続けること、などである。


そして、これらの営みに共通しているのは、「不可逆性」「取り返しがつかない」ということであり、それが完成度や洗練を求めるということにつながっていく。

つまり、「紙を中心としたひとつの文化」とは、完成度や洗練を求める不可逆性の営みだと言える。

だからこそ、「推敲という行為はそうした不可逆性が生み出した営みであり美意識」なのである。

この二つのポイントを踏まえて解答してみよう。

白い紙に過失を累積していく呵責の念が、完成度や洗練

を求める不可逆性の文化を作り上げてきた、ということ。


これがこの後に続く、無限の過失を受け入れ続ける可逆的なメデイアと対比されることになる。