火災と息子達





私たちには昭和46年生まれの長男 元司と

昭和48年生まれの兼吾の2人の息子がおります

現在元司は
レストランこだまの厨房に立っており

平成元年に室蘭商業高校卒業し
主人のアドバイスで東京四谷のモランボン
調理専門学校に入学
その後東京のさくらグループと言う
会社に入社 焼き肉屋で修行を行いました

元司も様々な職場の人間関係で苦悩し
何度も辞めたいと思ったようです

そんな時も家には一言も愚痴や
泣き言は言っておりません

この店が火災にあった時に元司
は専門学校に在学中

火災になる前日に元司宛に

目覚まし時計や衣類身の回り品などを送りました

もし発送が遅れていたら

これらも火災で焼いてしまうところでした

家が火災になったという連絡を受け届いたばかりの品を見ただ泣けてしょうがなかったと言っておりした



その後アルバイトに精を出し親の仕送りもあてにできないとので
生活費を自分で生み出そうと決心したそうです

1日の食事は300円以内に済ませ

できるだけお金を貯めようとしました

東京で通算6年ほど八王子は町田店の系列店を

まわりながらお客様のサービスや
食堂経営についてのことを取得して

今 お店を切り盛りをしております

こだまでの実務を多種雑多
限りなくあるわけでどのようにして
乗り越えられるから元司自身の努力も
要求されます引くことのできない
戦いでもあるのです

いくら主人に暴言を吐かれても
根性があれば良いと思っていますが

それは昔ながらの考えでしょう
私が見ている限りではあの私厳しかった
主人もやはり老いては子に従えなのでしょう


火災が起きた時次男の兼吾が高校1年生で

ちょうど宿泊研修の真っ只中途中で
帰ってきました無残に焼け落ちた
自分の部屋を見て

唖然としたのは8時間ほどやけ後に立ち尽くしていました

兼吾にはよほど衝撃だったのでしょう

自分が大切にしていた色々な物が煙で
真っ黒になって転がっているのを見せていく

腹立ちまぎれに拾い上げ地面に叩きつけていました

それを見た主人は
「ものを大事に大切にする心がないのか」
と叱りつけ

その後 2人は大格闘になり


さっと自転車に乗ると兼吾は出て行ってしまったのです

母親の私としてはやはり子供が火事で
悲しい思いをしているのがわかるし

出ていって帰ってこない

夕方6時になっても7時に
ないなっても帰って来ません

9時ごろやっと帰ってきました
焼け跡に立っていました
その後主人も平静を保っておりました

兼吾は虻田の私の両親の所へ連れて行き
当面面倒を見ていても見てもらうことにしました

ちょうどその頃兼吾は悪いことをしてみたい時期だったのか髪を赤く染めたりしていました

そのグループから抜け出そうとしていましたが

その矢先の火事

いつまでもこんなことをしていられないと
真面目な学生生活をしようと思いましたが

そのグループから抜けだそうと宣言すると
上級生たちから袋叩きにあい
あばら骨にヒビが入るような大怪我をしてしまったのです


私の両親にはただ自転車から落ちたと言っていたのですが痛さを我慢できなかったようです

夜になり虻田の父から電話があり知らない子たちが

兼吾に謝りたいと言ってきてると

実際には兼吾に大怪我をさして申し訳ないと
盛んに頭を下げて謝るばかり

兼吾のこの事件については

親御さんたちの立場を考え学校に言わずに
済ませましたが

怪我なったのは仕方ありません

この怪我をさせた子たちが
大人になり親になったときこのようなことをしたことを汲み取ってほしいとその場を終えました


またその後
兼吾は他のグループからのいじめに遭います



学校辞めるか転校するか

私は焼け出された家と息子の進路に悩んだのです

兼吾は

もう学校に行きたい行きたくないと言っておりました

主人は男なら中途半端な事はするなちゃんと高校くらい卒業しなさいと

その矢先小樽の北星学園と言う学校を知り

その学校の試験を転入をすることになりました

この学校は20歳以上の生徒もかなりいると言うことでした

心配もありましたが無事卒業し
兄と同じように調理師の道に進み
東京の中華料理店で働いております



昨今
学校ではいじめ問題が発生しており
子供が命を経つと言う恐ろしい事件まで
発展しております

私たちの場合火災にあい
明日の生活に追われる中で子供もいじめに遭い
そんな中ふさぎ込んでいることもなく

今の現在があります