独立したふたり



人を当てにするな





KM観光に

勤めていた頃は

「小玉さん達がお店をやったら

自分たちは電話1本でどんどん

商品もっていくからねと」

そう言ってくれた人たちは

いざ店を開けてみると

口を濁して全くもって来てくれません

それもそのはず私たちがホテルをバックに

していたのはその時だけのこと

そんなことを嫌と言うほど思い知らされました

それはそうですよね

たとえ商品を届けてもお金をもらえるか

どうかわからないそんなこともあり


主人は自転車に乗って毎日使う材料を

ネギ1本肉数百グラムと言う調子で

買い出しに行きました


主人は最初から高級料理の強い洋食よりも

一般的な大衆料理こそが本当の料理と言う


信念を持っておりましたので

噴火湾でホタテの養殖が始まったときから

ホタテめしを考案し

看板メニューとして売り出しました

また当時の名物である

味噌味ジンギスカンなども考えたしました

私は主人についていく事は

何の不安もありませんでしたが

ただ 

私たちの健康だけが心配でした


私は年中何かしら薬を飲んでいました

主人は糖尿気がありましたから

調子が良くても悪くても2人の健康状態は


絶えず気がかりでした


私たちは朝晩まで仕事をしてお金を

貯め2年間は育児制限をしていました

ただ、いざ子供が欲しいと言う時になると

私が子供ができない体と言うことがわかりました


黄体ホルモンの働きが悪いと言うことです

それから2年間ほどホルモン治療を受けました

結果としてあまり長くやると

体に良くないと言うことで

今思うとこの治療も後々

癌の要因になる1つだったのです


それから3ヶ月後子供が授かりました

私の不注意もあり危うく

流産してしまうところでしたが

一抹の不安もありましたが

長男を出産することができました

結婚して5年目

昭和46年2月9日私が29歳の時

長男の元司が誕生したのです

つづく.....