北海道へ 移住してきた元子






父も母キクも優しい人で私たち姉弟を

可愛がってくれました

小さい頃から働くことが大好きで

家事 洗濯 山に入っての芝刈りなど

何でも精一杯しました

だから周りからは元ちゃんは

「貰い子じゃないの」と噂が立つほど

父は信仰心の厚いひとでした

母に影響されてから 

こちらのお大師山に

草鞋を脱いで亮昌寺に通っておりました

私たちは両親の信仰心を見て育ちました

特に母は 信心深く学問のあまりできる人では
ありませんでしたが

お大師さんの

教えを身をもって実践してる人だと思いました

戦後間もない頃

衣料が手に入らないので人々はよく

軍隊の放出毛布などを染め変えて

オーバーやコートなどに仕立てて

直して着たものです

当時染物屋をやっていたので染め物には

大量の水を使いました

近くの湧水のところにリヤカーを引いて

何回も何回も湧水を汲みに行きました



高校進学
高校に落ちたら私は仕事をしようと

思っていたのですが

高校に通うことになりました


当時父は血痰を吐きながら仕事をしており

多分42 3歳までしか生きられないかも...

ひたむきな母の助けを受けて

81歳まで長生きしてくれました

昭和35年私は高校卒業後

バスガイドとして札幌の交通局に勤めました

その後職場にも馴染むまず1年後には

デパートの化粧品類の仕事につきましたが

「できるだけ高価なものを口先で上手に売る」

この仕事に私は馴染めませんでした

実家に戻り

伊達市内のTデパートで店員として働きました

そのデパートで私はこれから先の

商いと言うものについて

勉強を教わるのです


悲しい青春


デパートでは
何の前触れもないまま呉服

売り場に配置転換されました

そこには古くから勤めている2人の先輩がいて

先輩たちは私が個性を持っていることを

敏感に感じていたのでしょう

意地悪が始まりました

不都合があれば直接言ってくれればいいのに

こそこそ陰口を叩かれている

2人は仕事で私をやっつけようとばかりに

雪の日 膝まで積もる深い雪を承知で

マットレスを売ってこいと言うのです

しかも大きいので小脇に抱えると

ズルズルと床に引きずってしまい


これでは歩けませんと言うと

背中に背負って行けばいいじゃない

と2人は意地悪そうに笑うのでした

それでも私は飛び込み営業でマットレスを

売り歩くことをしました

売り上げが少ないから会社から

何々を売ってこいと言われると  

喜んで売りに行きますが

職場で相手にしてもらえのないのが

何よりも辛いことです

今考えると私の天真爛漫な性格が

古い人たちには「ぶりっこ」と映ったようです

そのようないじめから私はストレスが溜まり

精神科に入院するような状況に陥りました

当時は20歳でしたが成人式の案内が 

来ておりました

晴れ着に袖を通す力も


沸かず母を悲しませました


つづく