病気と診断されるまで


生理痛がひどいだけだと思っていました。


多かれ少なかれ、他の人もこんなものだろうと思っていました。


1ヶ月の半分は生理痛や排卵痛、


後の半分は貧血でクラクラ~(((゚_゚)))


動悸、息切れ、立ちくらみはいつもの事でした。


ヘモグロビンの正常値が12~13のところ、大抵6~8くらいが私の普通。


子供が風邪を引いて、連れて行った小児科の先生から


「お母さん、見るからに貧血です。貧血の薬だしときましょう」


なんて言われた事もありました(笑)


本人(私)は貧血なんて、病気じゃないわよ!くらいに思ってたんですけどね。


ただ、出血の多さは大きなストレスでした。


『多い日の夜用ナプキン[スーパー]』を主に使用して


生理2日目ともなれば、ほんの2時間たらずで、真っ赤になってしまいます。


内臓がでてきてしまったんではないかと思うほど、大きな血の塊がでるのも


珍しい事ではありませんでした。


(毎月毎月、そんなに出血してたら貧血にもなりますよね(苦笑))


夜用[スーパー]を使っていても下着や布団をいつ汚してしまうかわからない。


体は辛いのに、夜もゆっくり眠ることもできない。

もちろん痛みもハンパない。


早くアガってしまえばいいのに…と毎月思っていました。






病名『子宮腺筋(せんきん)症』


この病名を初めて聞いたとき、


「子宮筋腫じゃないんですか?それとも筋腫の別の呼び方なんですか?」


以前、子宮筋腫と診断されたと先生に伝えると


「症状が似てるんで、そう診断されたのかもしれませんね」


「簡単にいうと、子宮筋腫は子宮にできた良性の腫瘍のことです。小さくても大きくても筋腫です」


「一方、子宮腺筋症は、子宮筋膜の中に内膜が潜り込んだ、内膜症の変形バージョンで、子宮全体が肥大化します」


「どちらも進行性の病気で月経過多、激しい腹痛、貧血といった症状があります」


子宮筋腫は、小さいものであれば筋腫だけ取り除くことができるけど


腺筋症はそれが難しいのだと、教えていただきました。


完治には子宮摘出しか方法がない病気だそうです。


子供を産む前に発症しなくて良かった!!と改めて思いました。



そんなわけで


先月、子宮の全摘手術を受け、ちょうど1ヶ月が経過しました。


手術の傷も癒えて、健康を取り戻しつつあります。






「どうして私だけがこんなツラい思いをしなければならないの!?」


「よりによってなぜ子宮の病気なの!?」


「どうして不倫されたこの時期なのよ!?」


どんな場面でも、被害者でいることは、ある意味とても楽でした。


なんて可哀想な私、と悲劇のヒロインになって


ただただ泣いていればいいのですから。


変わりたいと言いながら変わらなかった私。


人のせいにして自分は悪くないと思いたかった私。


言い訳して逃げてばかりだった私。


手術をした夜…


まだ朦朧とした意識の中


私の中にあった憎しみや恨みや妬みといった黒い感情が


子宮の中に詰め込まれ、そして取り除かれた、というイメージがぼんやりと私の心に浮かびました。


私は普段無神論者ですが


今回ばかりは、神様が病気というものを通して


甘ったれた私のお尻をひっぱたき、


「もうそろそろ、前に進みなさい」


「悪いモノは私がもっていってあげるから」


と、言われたような、そんな気がしてなりません。


私のお腹に大きな傷は残ったけれど


私の凝り固まった人生観や固定概念をひっくり返すのには


文字通り『荒療治』が必要だったのかなと


手術を終えて、そんな風に思えたのです。


これからの私の新しい人生


病気のない生活を考えると


なんだかワクワクしてきます。


今まで、できないと思ってたこと、諦めてたことも


色々挑戦してみたい。


楽しみです♪
小さい頃から


『母親に誉められた』


という記憶がない。


テストで100点とった時も


鉄棒で逆上がりが初めてできた時も


何をしても、何を言っても


「そんなの当たり前」


「そんなの普通でしょ」


そう言われて育ってきた。


「お母さんはもっとできたよ」


「何故できないの?」


と、出来ないことにばかり着目する母。



ただ誉めてもらいたかっただけなのに


いつもイヤな気持ちになって落ち込んだ。


そして、私からのささやかな要求も


ことごとく却下されてきたように思う。


小学生の頃、自転車で友達と少し遠いショッピングセンターに行きたいと母に言ったら


母は「お金も持ってないのに、行って何するの?」


私「ちょっとは持ってるし、買わなくてもみんなと一緒に行きたい!」


母「余計なお金使うからやめなさい」


私「・・・」


母「とにかくダメ!」


私「・・・わかった」


中学生の頃、友達がパジャマパーティーをしようと誘ってきた事がある。

私「友達の家に泊まりに行きたい」


母「ウチは泊まるのも、泊めてもらうのもダメ!迷惑かかるといけないし」


私「その子の家、何回も友達泊まってるし、お母さんもいいよって言ったんだって」


母「そうは言っても迷惑かけるでしょ。やめなさい」


私「だってみんな来るんだよ!」


母「よそはよそ、ウチはウチ」


私「・・・」


泣く泣く友達に電話をかけた。


受話器の向こうからみんなの笑い声が聞こえた。

高校生になると、もう母に何か頼んだり、要求しても無駄だと気づいた。

いつも


「ダメ」


だから言わない。


バイトも勝手に決めた。


隣町の駅ビルにあるカレー屋さん。


こじんまりとした、小さな店舗でカウンターしかない。


厨房に、当時30代くらいの店長とハタチ前後の男の子。


そして私を含む同年代の女の子2~3人が、カウンターで接客を担当した。


楽しかった。


土日、祝日はバイト三昧の高校生活だった。


何より、『自分で稼いだお金』が嬉しかった。


高校を卒業して、すぐに就職した。


早く大人になりたかった。


母の管理下から、抜けだしたかったからなのかもしれない。


寮のある会社だった。


私は、何でも自分で決めるようになっていた。


相談もしたことがなかった。


できる事は自分でやるのが普通だった。


失敗しても自己責任。


とりあえずやってみる。


割と、何でもできた。


よっぽどの事以外は、人に頼る事はなかった。


頼ることが苦手になっていた。


端から見たら、可愛げがないと思われてたかもしれない。


同年代の女の子とつるむのも苦手だった。


キャピキャピしてる女の子達に、イライラした。


「こんなの出来な~い」


「わかんなーい」


な~んて言ってるのを見ると


(やった事ないだけでしょ?)と内心思ってた。

(ホントは理解しようとしてないでしょ!?)と毒づいてた。


広く浅い友人関係だった。


今でも本当に友達と呼べるのは2人しかいない。

会社の寮に入り、母の下から離れ私は自由を満喫した。


盆も正月もない仕事だった為、それを理由にほとんど実家には帰らなかった。


ずっと母が嫌いだった。

私を自分のようにさせたかった母の口癖は


「一を聞いて十を知れ」


「親の言うことに間違いはない」


常に先回りして


「こうしてはいけない」


「これはやめなさい」


親の保護下にいる間はガマンしていたが、それでも喧嘩は絶えなかった。


どんな小さな事も


母が『正解』で私が『間違い』


白い物も黒になり、母の気分で赤にも青にもなった。



母に負けじと私も言葉が強くなる。


あまりの激しい口論に、父が仲介に入ることも多々あった。


喧嘩の発端を知らない父は、私からの話も聞かず


「お母さんの言うことを聞きなさい」


母は勝ち誇ったように私を見る。


認められない悔しさから涙が溢れる。


そんな子供時代だった。





そして今、いろんな本や情報から


自分がアダルトチルドレンではないかと気づいた・・・


私の心は子供のまま


ずっとずっと泣いてたんだ。
やっとブログ書けるくらい元気になりましたー!


ご心配おかけした皆様、温かい励ましの言葉や応援ありがとうございました。


手術も無事終わり、10日前に退院しました。


子供たちが心配で心配で先生に無理を言って、約一週間で退院させてもらたんです。


が、やはり体調は万全ではなく…


家事は必要最低限、夕飯はコンビニ弁当ばかり


昼は起きてる事ができず、部屋は散らかり放題、洗濯は子供まかせの母親失格状態でした(泣)


でも、なんとか昨日あたりから復活モードに切り替える事ができ、こうしてブログを書いてる次第です。


正直、お腹の違和感はまだ拭えませんが、痛みはほぼありません。


順調に回復に向かってるようです♪


と、ここまでの流れだと「良かった良かった」で終わりそうなんですが


ちょっと嫌な事があったので愚痴らせてください。


母の事なんです。


母は入院当日から毎日、病院にきてくれました。

旦那に頼れない今、本当に心強かった。


手術をためらってた理由の一つに、資金不足というのもあったんですが


母が「足りない分は出してあげるから」と背中を押してくれて


手術することを決意できました。


感謝しています。






手術から4日目、母から「今日は頭が痛いから行けない」


とメールがきました。


私は「今まで毎日来てくれてたし、無理しなくていいよ」


と返信しました。


母は風邪を引いたようで、次の日もその次の日も病院には来ませんでした。


そして迎えた退院の日。

先に私から「今日退院になったけど、調子悪いなら来なくても大丈夫!一人で帰るね」


と連絡しておき、一人で退院しました。


退院後、母から毎日のように電話がかかってきて

話し始めは「具合どう?」なのですがその後は


「お見舞いに来てくれた人へのお礼はしたか」


「兄夫婦も心配してるから連絡をしろ」


「近所の人も手術して…」


「親戚の誰某が病気で…」

…だんだん返事をするのも面倒くさくなってしまい、ぶっきらぼうに答えていました。


実際、体も辛かったですし。


そして退院から5日目の夜遅く、母から「熱が38度ある」とメールがきました。


すぐに母に連絡し、「病院につれてこうか?」と聞きましたが、とりあえず明日まで様子をみるとのこと。


しばらくすると「37.3度まで下がった」とメールがきたので、


「明日、様子見に行くね」


と返信しましたが、やはり今から見に行こうか?…でももう遅いし…なんてモヤモヤしたまま眠りにつきました。


家から実家まで車で約30分、元気な時ならそのまま行ったと思います。


父が亡くなる前、やはりちょくちょく熱をだしていて、その時の後悔が私の中に罪悪感として大きく残っていたから。


だけど、言い訳かもしれないけど、まだ体が本調子じゃなかった。


家事もままならなかった。


人のことより自分のことでいっぱいいっぱい…。


次の日の朝、実家に行った私に母が言った言葉、何て言ったかわかります?


「熱があるっていったらとんできてくれると思ったよ。あんたは薄情な娘だね」


…私はこんな親に育てられてきました。


こんな矛盾したことを平然と言う親に。


「あんたもまだ具合悪いかもしれないが、私も具合が悪い」


「私はあんたの入院中、病院まで何度も足を運んだ」


母は明らかに見返りを求めています。


でも、その根本は愛です。かなりひねくれてますが。


(いろいろと勉強をしたお陰で、読み取ることはできるようになったみたいです)


ただ、父の死の後悔という罪悪感があった私に


サラッと流す事はできませんでした。


「薄情な娘」


この言葉は私の心を深く傷つけ、気づいた時にはボロボロと涙が


次から次へと溢れて止まりませんでした。







可哀想な人。


こうやってしか愛情表現できないんだ。


なんてヘタクソな愛情表現。


そして、私もそうやって育ってきたんです。それが私の中の普通だったんです。


いつもの私なら「母さんのそういうところが大キライ!!」と叫び


しばらく連絡を途絶えたことでしょう。


私は旦那に、似たような事を数多くしてきました。


親子なら、血は繋がってますが夫婦は他人です。


私から逃げたくなる事が、ようやく理解できました。


『人の振り見て我が振り直せ』(でしたっけ?)


母の言葉で、自分の価値観のルーツが見えました。


とっても嫌な出来事で、最初はホントにただ愚痴りたいがために書き始めたんですが


書いていくうちに、なんだか方向が変わっちゃいました。


気づけたのはいいけど、これからどうしよう。


ちなみに母には、なぜ私が泣いたのか


どれだけ傷ついたかを冷静に話し、すぐに実家に来れなかった事を謝りました。


旦那には


どうしようかな…。


また話が出来るときがきたら


その時考えよう。