高校野球で活躍している球児達が、自分よりも年下であるという事実が、勿論、頭では理解できているのだけれども、今もって感覚的に自覚が沸かない。
既にシューベルトはもとより、モーツァルトが亡くなった歳よりも生きて来た、というのにである。
そんな歳にもなって、まだ高校球児がお兄さんに見えているなんて、普段、如何に鏡を見ていないか、なんて問題では済まされまい。
尤も、電車などで遭遇する高校生は明らかに若さに溢れているから、そんな錯誤も早々起きないのだけれども、テレビジョンに映る彼等の人生を掛けたプレー、年々ハイレベルになるインタビューへの受け答え等を見ていると、数段、自分よりも成熟した人間に思われるのだ。
そんな気持ちで日々生きているのだけれども、仕事先等で初めて会う方には、屡々、もうシューマンの歿年を越えるくらいの歳と見積もられている。
それは容姿の問題なのか、それとも人にはよく成熟した人間として私も写って見えるのだらうかしら。
何れ、歴史に名を刻む大家の音楽を聴く度に、天才は押し並べて如何に早熟であるかを思い知らずには済まされない年齢になったのだけは確かだ。
ギヨーム・ルクーもまた24歳で夭折したベルギーの天才である。
私が、ルクーに夢中になるきっかけとなったのは、未完に終わったピアノ四重奏曲の第1楽章だった。
冒頭、何とも異様な熱情に駆られた幕開けをする作品で、こんな音楽を書いていたら早く死ぬのも道理だな、と得心したものだ。
偉大な作曲家は、皆、作品の中で、半ば自らを葬り去ってから死んでいくが、ルクーのピアノ・カルテットにも、そんな気配が漂っている。
だから、彼の死因が食中毒による腸チフスでの急死というのは、些か拍子抜けの感がある。
ルクーの音楽に彼の死を予見させるものを聴いたならば、それは聴き手のいい加減なイマジネーションの賜物に過ぎない訳だ。
しかし、そのずれにこそ、芸術が高尚たる所以もあろうか。
それは兎も角、ルクーの代表作は、なんと言ってもヴァイオリン・ソナタである。
30分に及ぶ大作で、仮にそれまでに書かれたカルテットやトリオ、チェロ・ソナタが、とても才能ある作曲家の優れた習作という域を脱していないと鑑定されるとしたら、ルクーの才能が開花した殆ど唯一の作品とも言える。
ルクーは、音楽の始め方がとても上手い作曲家で、ヴァイオリン・ソナタも冒頭の旋律からして、一瞬にして清々しくもどこか孤独な世界が開かれ、この瞬間に感動を覚えなかったら、恐らく30分間、一度も感動する場面はなく終わってしまうだろう。
ベルギーの作曲家のヴァイオリン・ソナタと言えば、ルクーの師でもあるセザール・フランクの作品がやはり高名で、フランス系のヴァイオリン・ソナタの最高峰とされている。
フランクもルクーも、ベルギーの偉大なヴァイオリン奏者である、イザイの為にソナタを書いており、そのヴァイオリン・ソナタを以て、偉大な作曲家と認められる様になったという所まで共通している。
どちらもフランクが編み出した循環形式という仕組みの音楽となっているが、師のソナタには鬱々とした雰囲気が漂い、且つ、デカダンスな薫りのない敬虔な重みがあり、対する愛弟子のソナタはとても瑞々しくて、やや頽廃的な気配も籠る、耽美的な陶酔の世界を揺蕩う。
私は断然、ルクーの方に惹かれるが、それが性分なのか年齢的な共感の故かは分からない。
人間は年齢と共に好みも価値観も変容する。
しかし、若い頃と晩年とでどちらが深化しているかは、案外に分からないものでもある。
創作の頂点が比較的若い頃に訪れた長命な作家ほど、不当に扱われるものもない。
ルクーの素晴らしいヴァイオリン・ソナタが、彼の早すぎた死によって、その価値を高める事はあっても、減ずる事はないのである。
そういう音楽の聴き方に対して、音楽を聞く耳がないと評する向きは多いけれども、夭折の作家に同情する真心の方がどうして浅はかだと言えようか。
そもそも、人間が人間の仕業に感動するという事に、私は大した値打ちはないと思う。
なんの値打ちもない事として、私はルクーの音楽に魅了され、強いては己の人生に喜びを禁じ得ないまでの話だ。
一、
フィリップ・ヒルシュホーン(ヴァイオリン)
ジャン=クロード・ヴァンデン・エインデン(ピアノ)
1991年録音、リチェルカーレ盤
ルクー大全に納められている録音。
ヒルシュホーン程、ルクーを弾くに相応しい人もいない。
だから、これ以外の録音は、巖本真理からデュメイに至るまで多くの盤を既に手放してしまった。
ヴァイオリン・ソナタに限らず、ルクーを聴きたいなら、兎に角、リチェルカーレのルクー大全を入手すべきだ。
作者:
Guillaume Lekeu(白1870-1894)
演者:
Philippe Hirshhorn(拉1946-1996白)
Jean-Claud Vanden Eynden(白1948-)