今年に入って体調不良が続き、更新が遅れ勝ちになっております。
なかなか時間が取れないものの、通して読んでいると、
一寸した疑問や興味が沸いてくるもので、
自分なりのテーマを設定して深掘りしていくのも楽しいものです。
1日
■五卿帰洛問題は、重要である。
■慶応2年10月の小松帯刀の率兵上京以降、
小松の許可がなければ、薩摩藩は何も進まない。
2日
■どうも「参預会議」は過大評価だと感じている(^_^;)
拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復』
(岩田書院、近代史研究叢書 17) を参照いただきたいのだが、
図書館で借りてくださいって、図書館にないか(笑)
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-643-7.htm
■『防長回天史』。極めて重要な文献史料だが、
舐めるように精読するには荷が重すぎる。
しかし、宝庫であることには違いない。
■慶応元年7月13日、
孝明天皇は朝彦親王と二人だけで対面しているが、
話の内容はあまり政治向きではなかった様子。
その直前に宸簡二通。奥向きの内容か。
■慶応元年夏、朝廷では中山忠光のその後の動静を探っている。
7月27日、朝彦親王は長州藩内で毒殺されたと桑名藩士から聞き及ぶ。
3日
■いわゆる「(亀山)社中」のメンバーは、ユニオン号に関連し、
木戸孝允から
「丑丸乗組之人数如御承知議論沸騰始絡之處治り兼候様子に被相察候」
と煙たがられていた。
早く薩摩藩に連れ戻して欲しいと小松帯刀に依頼している。
■近藤長次郎の自裁後の社中の代表は、小谷耕蔵・菅野覚兵衛。
4日
■島津斉彬は松平慶永に
「私家来多数あれども、誰も間に合ふものなし。
西郷一人は、薩国貴重の大宝也。乍併彼は独立の気象あるが故に、
彼を使ふ者私ならではあるまじく」(『逸事史補』)
と、西郷隆盛を薩摩藩の宝とまで持ち上げて褒めている。
斉彬でなければ西郷は使いこなせないとしており、
まさにその後の西郷の人生を言い得て妙である。
庭方役を拝命以降、西郷は斉彬と日常的に接することとなったが、
身命を賭してでも斉彬のために働こうと深く誓った。
斉彬あっての西郷であった。
5日
■批評をするということは、相当な覚悟が必要。
一次史料を使うなど、論拠も必須。
なお、ピンポイントな扱いは的外れになることが多い。
全体を俯瞰して、その批評が全体にどのような影響を与えるかを自問自答したい。
■慶応元年から2年にかけて「坂本龍馬=薩摩藩士」(龍馬の島津家所属)
という仮説について、
現在、アカデミックな具体的な反論をお待ちしている段階。
■定説に対して新しい論が出た場合、
アカデミックに反論がなされなければ、
少なくとも新論は一定以上の評価を得ている可能性が高い。
言い過ぎかも知れないが、定説化への一歩を踏み出したはず。
但し、学会で多数決を採る訳でもなく、
旧説を乗り越えることは並大抵ではない。
■著書(一般書)では
判明している「史実」とは矛盾しない限りで想像力を働かせているが、
論考(学術論文)では極力想像を廃して「史実」を追求していると言えるのでは。
坂本龍馬論について、いずれ学術論文(論文集含む)にしてみたい。
■吉川弘文館の『人物叢書』、大久保利通がない。
島津久光は、寺尾美保さんが執筆予定。
高村直助『小松帯刀』は画期的だった。
相変わらず松下村塾の四天王では高杉晋作のみ。
久坂玄瑞、吉田稔麿はぜひ欲しい。
そもそも、吉田松陰がない・・。
■長府藩は、長州藩の3支藩の一つ。
宗藩が下関の直轄を企てたことから対立、
後に和解し他の長州支藩と共に長州征伐等にあたる。
なお、明治になって子爵に止まったことについて、
明治天皇が叔父の中山忠光が長府藩に亡命中、暗殺されたことから、
天皇が長府毛利家の伯爵への叙爵を渋ったとの説もある。
■長州藩海軍局を知るためのベストな史料、文献は何かと思案中・・。
未だに突き当たらない。現地調査か。文書館!
■10年前のツイート「幕末の薩摩藩の人物で、
例えば文久・元治期に限った場合、気になる存在を挙げれば、
島津久光、久光四天王(小松帯刀、堀次郎、中山中佐衛門、大久保一蔵)、
西郷隆盛、吉井友実、藤井良節、本田親雄、田中新兵衛、高崎正風、
高崎五六、奈良原繁などである」。さて、慶應期は如何?
■吉田松陰の門下生で、高杉晋作、久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と称され、
松下村塾の双璧と呼ばれた。
また、この2人に吉田稔麿を入れて三秀、
さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。
しかし、一人も明治を迎えることができなかった。長州は死に過ぎた・・。
6日
■【備忘録】
「勝海舟関係資料 海舟日記(一)」
B5版 331頁 (平成14年発行)
海舟日記一 ---文久2年(1862)閏8月17日~文久3年(1863)3月16日
海舟日記二---文久3年(1863)3月16日~同年10月2日
海舟日記三---文久3年(1863)10月3日~元治元年(1864)7月9日
<解説:近松鴻二・落合則子>
■「勝海舟関係資料 海舟日記(二)」
B5版 290頁 (平成15年発行)
海舟日記四…元治元年(1864)7月10日~慶応元年(1865)8月28日
海舟日記五…慶応元年(1865)9月1日~慶応3年(1867)2月25日
<解説:落合則子>
■「勝海舟関係資料 海舟日記(三)」
B5版 224頁 1,700円(平成17年発行)
海舟日記六…慶応3年(1867)正月28日~慶応4年(1868)4月26日
海舟日記七…慶応4年(1868)4月28日~明治2年(1869)3月20日
<解説:落合則子・田原 昇・藤田英昭>
■「勝海舟関係資料 海舟日記(四)」
B5版 153頁 1,400円(平成18年発行)
海舟日記八…明治2年(1869)4月21日~明治3年(1870)10月23日
<解説:田原 昇・藤田英昭>
■「勝海舟関係史料 海舟日記(五)」
B5版 148頁 926円(税込)(平成23年発行)
海舟日記九…明治3年(1870)10月24日~明治5年(1872)1月15日
<解説:藤田英昭>
■「勝海舟関係史料 海舟日記(六)」
B5版 254頁 1,229円(税込)(平成29年発行)
海舟日記 十 明治5年(1872)正月15日~明治7年(1874)1月20日
海舟日記 十一 明治7年(1874)1月21日~明治8年(1875)5月14日
<解説:落合則子>
■元治元年1月15日、将軍家茂は政事総裁職松平直克(川越藩主)
および老中酒井忠績(姫路藩)・水野忠精(山形藩主)
・有馬道純(越前丸岡藩主)を伴って入京し、二条城に着した。
翌16日、一橋慶喜は総裁・閣老と共に家茂に謁し、
「勅命の御懇篤なる次第及び在京諸侯の厚く周旋せる状況」 を詳述した。
そして、将軍家の長期滞京を求め、公武一和を図ることを懇請した。
更に、長州藩処分については、
家茂自身が進発するほどの奮発がなければ折角の好機を逸することになり、
「今後衰運御挽回の期なかるへし」と切言した。
これに対し、家茂は「殊の外御感悦在らせられ、
此上にも萬事依頼すへけれハ充分に尽力ある様、尤いつ迄も在京すへし」と述べ、
また総裁以下も大いに喜悦しており、従来の嫌疑が氷解したと慶喜に思わせた 。
また、慶喜同様に疑念を抱かれていた松平春嶽も同日、
「御用向御相談可有之候間、時ゝ登城候様可被致候」 と、
幕政加談を沙汰された。
参与諸侯、特に慶喜にとって、甚大な憂いが払拭できたかに見えたが、
家茂の右大臣宣下(21日)にあたり、事態は簡単ではなかった。
勅使坊城俊克・野宮定功が前日に二条城に派遣された際には、
「橋公に準将軍宣下あるよし申触らせし者ありて、芙蓉間の輩ハ大ニ騒き立」
ており、松平容保が「若千万一左様の事あらハ、此方一人にても拒むへし」
と申し立てたため、ようやく沈静した。
この事実は、参与諸侯の思惑に反し、幕閣の依頼は表面的なレベルであり、
警戒感は継続していた証左である。慶喜にとっては深刻な実態であり、
幕府要路との盤石な信頼関係の構築には遠く及ばなかった。
■慶応2年の長州藩を見ていると「小松・木戸覚書」以降、
木戸の圧倒的な指導力が確立し、
木戸を中心に山田宇右衛門・広沢真臣・前原一誠で動かしている様子が窺える。
高杉晋作は相変わらずであるが、木戸に一目置かれ、
舎弟の伊藤俊輔に色々やらせている感じ。
木戸も伊藤の周旋力を頼りにし始めている。
■慶応2年、木戸孝允・高杉晋作・伊藤俊輔らが唱える
「薩英会盟」に乗り遅れるな!は興味深い主張。
相変らず、高杉晋作の独断専行。それを許容し続ける藩廟。
その尻拭いに奔走する木戸孝允・井上聞多・伊藤俊輔。
長州藩は独特の「甘さ」がある。
■専門書としてまとめる際、
例えば元治年間だが、芸州藩の史料、
『芸藩志・芸藩志拾遺』も活用してブラッシュアップするつもり。
7日
■「尊公様(小松帯刀)御一身ノ御賢慮次第ニテ」、
島津久光の名代として、小松の権限は絶対。
■薩摩藩は、孝明天皇の崩御前の病状を、柳原光愛から聞いていた。
■一会桑勢力・政権に関する議論が活性化してきてうれしい限り。
私も拙稿「幕長戦争・将軍空位期における中央政局と薩摩藩」
(『神田外語大学日本研究所紀要』14号、2022年3月)で、
少しだけ言及している。
■文久2年(1862)の寺田屋事件当時、
伏見義挙を目指す尊王志士は「名分大義を明かにし、
鎌倉以前の大御代に挽回し、朝威を内外に輝すべき」を目標とした。
そこには、幕府は存在していない。また、建武の新政を意識している。
■足利三代木像梟首事件の捨札によると、
「今世に至り、此奸賊に猶超過する者あり。
共党許多にして、共罪悪足利等の右に出づ。
若夫等の輩、直に旧悪を悔ひ忠勤を抽で、鎌倉以来の悪弊を掃除し、
朝廷を奉輔佐古昔に復し、積罪を償ふの所置無きに於ては、
満天下の有志、追々大挙して可糺罪科もの也」。
■大和親征時には、「皇朝興亡之所關に付、断然御打出し被成、
第一等に出候て、奈良以前之政事に被復候様有之度」となり、
土地・人民の統治権を天皇が収攬することを主張する。
これを主唱し、まとめているのが真木和泉。
後世からみると文久期の廃幕(または倒幕)論は稚拙であり、
非現実的であるが、廃幕論には違いない。
■真木和泉「義挙三策」は、文久元年12月20日段階のものであり、
真木の論もそれ以降とは明らかに違う。
懲罰すべき対象としては幕閣を指し、
将軍家茂はむしろそこから解放すべきであるとし、
皇国復古のために将軍家の奸吏を排除することを提言している。
それ以降の方策は散逸の「神速録」に記載としているが、
それまでの動向や後の「五事献策」から、平野國臣同様、
徳川家世襲の将軍宣下を回避し、
諸侯同一の武臣とすることが盛り込まれていた可能性が高い。
いずれにしろ、徳川家は温存するものの、
実際には武臣への大政委任を廃止し、事実上、廃幕構想であった。
■平野国臣は文久元年12月の入薩時、
「尊攘英断録」に基づく主張を薩摩藩要路に対して展開し、
大諸侯である薩摩藩主が尊王の義を唱へて義挙を実行すれば、
幕府を圧倒するに足ると論じた。
皇政回復後の施策については、武備充実と航海術の習得、
囚人による蝦夷・八丈島・無人島の開拓、征韓論、
商船による上海・香港での夷情探索、征夷大将軍の皇族任命、
天皇親征等であった。
平野は薩摩藩のような大藩に頼って幕府膺懲の上、
天皇による兵権も掌握した親政を目指していた。
徳川家から皇族への征夷大将軍の交代は、実質的に将軍家否定であり、
結果として幕府否定の志向が存在していた。
なお、この時点では藩主茂久が参勤交代で来春出府するものと認識しており、
柴山愛次郎・橋口壮助から久光率兵上京を知らされるのは、
彼らの出府途時である文久2年1月後半であった。
■平野国臣の「培覆論」
(薩摩藩士柴山愛次郎・橋口壮助宛書簡、文久2年1月2日)によると、
薩摩藩の「一橋を将軍とし、越前を後見として、
其外可然人材を撰みて有司とし、幕府を扶け、以て外寇を攘ふと申候御説」
は現状の幕府においては無用なこととして退ける。
その事由を「幕府を如何に扶け候とも徒骨折にて、兎ても角ても行はれ間舗、
迂論窮るといふべし」とし、薩摩藩が主力となる、
天皇親征があって初めて「天朝恢復」(皇政回復)が実現するとの見解を示した。
■品川弥二郎は、一会桑勢力に二条斉敬・朝彦親王をプラスして
「尹条一会桑」勢力とする。まさに言い得て妙。
■寺田屋事件直前の4月8日に認められた平野国臣の「回天三策」の上策は、
大坂滞在中の久光に勅命を与え、
大坂城、彦根城、二条城を草莽義挙によって攻め落させ、
久光は司令官として入京の上、幕吏を追い払って青蓮院宮の幽閉を解き、
大坂城に玉座を奉じさせる。
孝明天皇は東国の親征に向かい、箱根にて将軍家に罪を糺して諸侯の列に貶め、
抵抗する時は武力によって成敗するとしている。
いずれにしろ、廃幕を企図するものである。
■天皇親政(王政復古)派の中でも最も激派に属する国事参政・寄人の意見を、
中山忠光奏聞書で確認する。
その中で、家茂、慶喜、春嶽を名指しで違勅の逆賊とし、
速やかに征討すべしであると、武力を伴う廃幕である「倒幕」を主張する。
しかし、朝廷には兵馬の権(統帥権)がなく叡慮が叶わないので、
至急草莽の志士を招集して手当たり次第逆賊を誅殺し、
人民を幕政の艱難から解放させ朝廷の恩恵に帰するため、
数千の義兵を募って、親征のお迎えに参上したいとする。
更に、逆賊征討を仰せ付けられれば、関東に深く攻め入り、
遠からず将軍家の首を献じたいと極言する。
そして、逆賊の言を断然取り上げず、錦旗を押し立て、
在京逆徒を早々に放逐すべきことを懇請した。
似て非なる主張は多いし、同じ人物の主張でも、時間よって相違がある。
■京都潜伏中の品川弥二郎から木戸孝允宛書簡が面白い。
在京薩摩藩士が、久坂玄瑞の遺墨を欲しがっている。久坂玄瑞、やはり大きい。
8日
■中山忠能も信じ難いとしながらも、
徳川慶喜が慶応2年11月に毒を盛られて死んだとの噂があると記載。
■薩摩藩が明治維新を成し遂げられた理由とは?
鹿児島の地理的特性と琉球の存在
幕末維新史探訪2023(7)
薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか①
■慶応2年5月21日に横浜を発って長崎に向かったパークスは、
24日に下関に寄港した際、高杉晋作・伊藤博文の訪問を受け、
鹿児島からの帰路に長州藩主と会見することを申し込まれた。実現せず。
■『朝彦親王日記』を読んでいて、坂本龍馬!近藤勇!という記載を見ると、
ドキッとする。のは私だけか?
■吉田稔麿は天保12年(1841)閏1月24日
(「吉田稔麿年譜」(吉田稔麿関係文書)、山口県文書館蔵による。
但し『松陰先生と吉田稔麿』、来栖守衛、山口県教育會、昭和13年、15頁では20日)に足軽清内の嫡子として生まれた。吉田姓は自称である。
■伊藤博文の直話として、
「予は伊藤成と称せられ、何人にも後れを取らざりしが、
獨り吉田稔丸と称する者には一籌を輸したり。
彼は実に天稟の英才なりし」 とあり、その逸材さが如実に分かる証言である。
明治まで生き延びた吉田稔麿を見たかった・・。
■奇兵隊参謀の片野十郎とは何者か。木戸孝允、山県有朋からメチャ信認されている。
■松方正義や黒田清隆、
どうしても明治期の首相や大蔵大臣などとして関心がもたれるが、
実は幕末期の彼らも重要であり、個人的には強く意識している。
島津久光や小松帯刀、西郷隆盛の傍近くにおり、また生麦事件、
「小松・木戸覚書」(薩長同盟)にも欠かせない。
■松浦玲さんのお仕事は重要。
例えば、『横井小楠-儒学的正義とは何か』(ちくま学芸文庫、2010年)、
『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)、
『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)、
『勝海舟』(筑摩書房、2010年)、
『勝海舟と西郷隆盛』(岩波新書、2011年)、
『徳川の幕末』(筑摩選書、2020年)など。
■幕長戦争中の小倉に居た小笠原長行は仮病を使い、
パークスとの会談を2日延ばしたくせに、
その2日間、ロッシュとは密談している。
幕閣のロッシュ贔屓、パークス忌避は明らか。
■小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の慶応期の居所表は作り始めたが、
パークスも必要かもしれない。
■『歴史評論』2023年3月号(第875)入手。特集/幕末史研究入門 http://maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kongetugou.html
9日
■朝彦親王は、孝明天皇の症状をまったく把握できていなかった。
慶応2年末には、その程度の政治力しかなかった。
■正親町三条実愛が議奏の任期中、十津川郷士6人が警護にあたっていた。
■正親町三条実愛が謹慎・閉門を命じられると、
会津藩士が5,6人来て、守衛の名の下の監視体制。
■慶應2年の研究は幕長戦争に偏っており、思った以上に先行研究は少ない。
■吉井友実の資料、憲政資料室関連は明治以降・・。
吉井は伝記もありませんしないものは仕方ないが、
幕末期の吉井の史料がもう少し残っていればな・・。
10日
11日
■慶應2年6月、勝海舟の凄みを今更ながら。
■大久保一蔵の動きが活発になる慶応2年。
小松帯刀、西郷吉之助が在京でないことが大きな要因。
■品川弥二郎は、関白二条斉敬を「二条姦白」と記す。
■「品川弥二郎日記」では、人物を一文字で表記。比定が頗る困難。
「院」は誰?
■その通りです
<引用ツイート>
かせん@・・・・・・・·
「院」は、伊集院兼寛ですか。 twitter.com/machi82175302/…
■「品川弥二郎日記」では、「大」は大久保一蔵、「黒」は黒田清隆。
木戸孝允は二文字で「木圭」。
■品川弥二郎関係文書、憲政資料室に行かなきゃダメかな。
■『維新日乗纂輯』、目次をみるだけでも面白い
■私は薩摩藩研究をメインにしているが、
幕末政治史における越前藩の重要性は、薩摩・長州両藩に匹敵するものであり、
何をやるにしても越前藩の動向は押さえる必要がある。
薩摩藩研究を深化するためにも、越前藩の研究は必須である。
■拙稿「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」
(神田外語大学日本研究所紀要11号、2019年)はこちらで!
■知野文哉さんに、「橋本左内は町田さんが好きなタイプですね」
と言われたが、図星
12日
■慶応2年の大坂留守居、木場伝内に注目。
■久留米藩周旋方の久徳与十郎は重要人物。
一会桑勢力や新選組とも接点あり。
■慶応2年6月23日、軍艦奉行勝義邦「安房守」江戸より、
大坂に至る「二十二日」。
是日、老中板倉勝静、義邦に上京を命じ、
鹿児島藩の征長出兵及同藩と会津藩との融和に周旋せしむ。重要
■慶応2年7月30日、広島藩吏小鷹狩介之丞・船越寿左衛門、
長崎に於て、汽船万年丸「原名キンリン」を鹿児島藩より、
同ヂャツパン「後豊安丸」を英国商人より購入し、
是日、宇品に廻航す。結構気になる
■慶應2年5月、松平春嶽が書簡を受け取った相手。
松平定安、勝海舟、山科宮、一橋慶喜、板倉勝静、山内容堂、朝彦親王(到着順)
■妻木忠太『前原一誠伝 』(マツノ書店復刻版、1985年)を久々に見ているが、
肝心なところで筆致が弱まる。
まあ、顕彰を目的とした面もあるので致し方ないが、
それだけ伝記資料は慎重に扱うべきもの。
13日
■慶應2年5月、越前藩主松平茂昭は長州再征における九州総督を内命されたが、
脚気による歩行困難で辞退。
その代わり、松平春嶽が家茂出陣後の大坂城の留守を内命される。
■明治一桁代前半の鹿児島藩・県の政治的動向を研究してみたいが、
時間が残されているかどうか
14日
■慶応2年7月の内田政風書簡(会津藩公用人・外島機兵衛宛)を読む。
緊迫した薩摩藩・会津藩の関係性が噴出。
■慶応2年、木戸孝允・高杉晋作・伊藤俊輔らが唱える「薩英会盟」への参画。
実はその裏で、高杉晋作は伊藤とともに洋行を計画。
井上聞多も同行したがっている。このあたり、かなり面白い。
■日露交渉史において、最も重要な人物は海軍軍人プチャーチン(1804~83)。1852年、海軍中将・侍従武官長の身分で第3回遣日全権大使節に任命され、
嘉永6年(1853)7月18日、長崎に初めて来航し、
その後幾多の困難を乗り越え、安政元年(1855)12月21日、
下田で日露和親条約を締結した。
その功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進した。
1861年には教育大臣(国民啓蒙大臣)に任命され、
任期間に大学を中心とする学生運動、革命運動を弾圧した。
また、明治14年(1881)には日露友好に貢献した功績によって、
日本政府から勲一等旭日章が贈られ、1883年、80歳で死去
15日
■本日は、『肥後藩国事史料』からスタート。
■『幕末維新史への招待』
はじめに 町田明広 序章【研究の現在】 幕末維新史研究の最前線 町田明広
☆第1部 「幕末」とはどのような時代なのか
1章【世界情勢】幕末はいつからはじまるのか? 森田朋子
2章【鎖 国】なぜ「鎖国」から「海禁」と呼ぶようになったのか? 大島明秀
3章【尊王思想】「尊王」と「佐幕」は対立軸ではなかった? 奈良勝司
4章【社会の様相】幕末社会はどのような状況だったのか? 須田 努
☆第2部 再検証! 朝廷・幕府・諸勢力
5章【朝 廷】幕末の朝廷は、経済的に自立できていたのか? 佐藤雄介
6章【幕 府】開国後、諸大名との関係はどうなったのか? 藤田英昭
7章【一会桑勢力】畿内における幕府の統制力はどうだったのか? 篠﨑佑太
8章【薩摩藩】幕末の財政改革・経済再建は成功していたのか? 福元啓介
9章【長州藩】攘夷決行はほんとうに大転換点だったのか? 山田裕輝
☆第3部 幕末維新史の転換点
10章【ペリー来航】植民地化の危機はほんとうになかったのか? 田口由香
11章【違勅調印】なぜ、条約締結に勅許が必要だったのか? 後藤敦史
12章【倒幕と討幕】倒幕運動はいつからはじまったのか? 友田昌宏
13章【陸軍建設】奇兵隊や幕末の長州軍は、明治陸軍の源流なのか?
竹本知行
14章【海軍建設】幕府海軍は明治政府へ引き継がれたのか? 金澤裕之
☆第4部 「幕府の終焉」と「戊辰戦争」は自明だったのか?
15章【薩長同盟】倒幕のための軍事同盟ではなかった? 町田明広
16章【大政奉還】徳川慶喜の真意はどこにあったのか? 久住真也
17章【戊辰戦争】「官軍」VS「朝敵」という単なる権力闘争ではなかった?
宮間純一
18章【新政府の組織】公家たちは新政府でどのような役割を担ったのか?
刑部芳則
19章【明治維新の帰結】なぜ薩長は、新政府の主導権争いに勝てたのか?
久保田哲
終章【後世の評価】明治維新はどのように論じられてきたのか?
清水唯一朗
☆コラム「幕末維新史の諸相」
・語学受容の実態 益満まを
・維新直後に主導された京都の近代化――明石博高と「お雇い外国人」 光平有希
・あまり使われなくなった「~派」という歴史用語 友田昌宏
■なぜ薩摩藩は、徳川将軍家や摂関家筆頭の近衛家と濃密な関係を結べたのか?
幕末維新史探訪2023(8)
薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか②
■慶応3年5月22日【綱文内容】
高知藩士乾退助「正形・後板垣」
・同中岡慎太郎等、鹿児島藩士小松帯刀「清廉」
・同西郷吉之助「隆永」等と京都に会し、討幕挙兵のことを密約す。
拙著『新説 坂本龍馬』で言及しました。
https://www.shueisha-int.co.jp/publish/%E6%96%B0%E8%AA%AC-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%A
■前原一誠は、安政5年(1858)5月、前原は家族とともに萩に移り、
村塾にも日常的に出入するようになった。
そこからの松陰や塾生との濃密な関係が、
志士・前原一誠の形成に深く関与するとともに、
その経歴がその後の人生で活きることになる。
■椋梨藤太は、文化2年(1805)生まれで、
ペリー来航時、既に49歳になっていた。
この時、周布政之助31歳、吉田松陰24歳、桂小五郎21歳、
久坂玄瑞に至ると14歳である。年齢から見ても、
この時点で椋梨が手練れの政治家であることが窺える。
■椋梨藤太については、
古川薫『幕末長州藩の暗闘―椋梨藤太覚え書』(徳間文庫)がある。
「藩内過激派に、血の粛清をもって対した藤太は、極悪人の刻印を押され、
歴史から抹殺された。
その、俗論党の巨魁の闘いの生涯を掘り起こした、著者会心の長州暗闘史」
と紹介される。残念ながら絶版。
■長州藩の派閥抗争は、正義党VS俗論党とされてきた。
椋梨藤太は俗論党の領袖である。
拙著『グローバル幕末史』では、正義党を「抗幕・武備派」、
俗論党を「従幕・恭順派」と定義した。