1

■このところ、安政期と慶応期を行ったり来たり。

結局のところ、幕末通史を見渡せないと、

ピンポイントもピンボケになりかねない。

2

■現在の坂本龍馬像であるが、その確立の契機の一つは、

昭和37年(1962)の司馬遼太郎『竜馬がゆく』であったと考える。

国民的作家となった司馬の代表作に数えられる、

この大ベストセラーによって、戦後における龍馬像の原型が形づくられた。

ここで、数多くの「龍馬伝説」が生み出され、今に至る。

続き)『竜馬がゆく』以降も、夥しい龍馬本が世に出ているが、

その描かれ方はかなり偏りが見られる。薩長同盟、大政奉還、

近江屋事件といった事柄が中心に描写され、

多くの人はそれらを思い浮かべるのが普通であろう。

一方で、その思想については、史料の制約もあって、

論じられることは極端に少ない。

続き)また、坂本龍馬は平和主義で、世界の海援隊を組織して、

岩崎弥太郎でなく、龍馬こそが大商社を作り上げるはずであったと描かれる。

私見では、龍馬は政治家になった可能性の方が高いと考える。

そんな龍馬像に対し、新たな龍馬を求め、『新説 坂本龍馬』で挑戦しました。

■これまでは、西郷隆盛・勝海舟会談の前に

西郷にパークスの「恫喝」が届いたとされていたが、

その後とされる意見が主流になりつつある。

いずれにしろ、主戦派で強硬派の板垣退助が総攻撃中止に同意した最大の要因は、

「パークスの圧力」であったこと疑いない。

しかし、江戸・横浜間は半日の距離であり、

「パークスの圧力」が会談前にもたらされていた可能性は排除できない。

また、アーネスト・サトウの関わりについても、日記は空白であり、

その他確固たる史料は残されていないものの、

可能性はゼロではないとの判断をしている。

https://tvu.co.jp/program/201701_edojomuketsu/………

3

■島津久光四天王とは 

小松帯刀(天保6年:1835~明治3年:1870) 

中山中左衛門(天保4年:1833~明治11年:1878) 

堀次郎(伊地知貞馨、文政9年:1826~明治20年:1887) 

大久保利通(文政13年:1830~明治11年:1878)

■島津久光四天王の中山中左衛門について、

明治9年(1876)1月、大久保利通らの暗殺を企てた激徒に連座して捕縛され、

懲役10年の刑を科せられ、明治11年(1878)に国事犯として獄死している。

続き)文久期前半には、小松を凌ぐ権勢を誇り、

四天王の中心であった中山が、事もあろうにかつての盟友・

大久保暗殺を謀ったことに、茫然自失の感を抱かざるを得ない。

まさに、事実は小説よりも奇なりである。

4

■中川宮の父、伏見宮邦家親王は子だくさん。

中川宮も、また然り。

■御託を並べながら、

結果として「トンでも説」になっていることに無自覚な自称研究者がおられる。

5

■幕末薩摩藩で島津久光と小松帯刀をスルーしては、もうダメ。

歴史系番組では、両者に言及がなさそうな場合、基本、見ていない。

■中井桜洲はしなければいけない人物の一人。

但し、史料は圧倒的に明治以降が残存している。

6

■歴史観を持つためには、当たり前ですが歴史を知らないといけないのですが、

高校で日本史を学んでこない時代、大変です。。

少なくとも、この150年の歴史は学んで欲しいです。

■西嶋量三郎『中山忠光暗殺始末』(新人物往来社、1983年)は、

「豊北町阿川在住の郷土史家による中山忠光の生涯と

その暗殺事件の集大成的書籍。

著者は歴史研究本のつもりはないとのことだが、

史料、証言等の紹介に富む基本文献」。

4年前、ご紹介いただき、ようやく入手

■江戸時代、文政期(1818~29)に入ると、

今度はイギリス船も各地に出没を始め、

幕府は文政8年(1825)に無二念打払令を発し、攘夷の旗幟を鮮明にする。 

この時期で特筆すべき経世家は、絶対主義的思想家であり、

農政家・兵学者でもある秋田藩士・佐藤信淵(1769~1850)。

かなりユニーク。

■佐藤信淵は天明4年(1784)に江戸に出たのを皮切りに、諸国を遊学して、

蘭学・儒教・医学・天文学・測量術といった幅広いジャンルを貪欲に学んだ。

文化12年(1815)には平田篤胤に入門し、

尊王攘夷思想にも影響を与えた平田国学を学んでいる。

■本を読んでいると、自分の本や論文を参考にしているか、簡単に分かるもの。

にもかかわらず、参考文献に挙げていただいていないと、がっくり来る。

 悪意を感じることもある・・。

■以前、「さかのぼり日本史」的な授業を考えたことがありました。

しかし、実現はしていません。。

ちなみに、歴史学(幕末特化)、日本近代史(幕末~1945)、

現代史(太平洋戦争~現在)を同時並行で授業しています。

7

■山形紘『市川・船橋戦争 : 幕府陸軍撤兵隊始末』(崙書房)、

持っていたはずだが、見つからない

■幕末肥後藩の動向は軽視できない。九州の外様でありながら、

基本は幕府支持であった。

その諜報力もすごく、その結果が『肥後藩国事史料』に垣間見られる。

本史料は、この時期の研究者は必須である。

特に上田久兵衛に継続して関心あり。

■再び繰り返してしまうが、『木戸孝允関係文書』5巻が至急欲しい!

その事由は、広沢真臣および山田宇右衛門から木戸孝允宛の書簡を拝見したいから。

特に広沢!!関係各位、どうかよろしくお願いいたします。

黒岩直方(天保5年?~明治33年)大審院判事・山階宮家令。高知県出身。

初名、磯部寛一郎。土佐勤皇党。八月十八日政変の際、

安芸守衛と称して三条実美らを護衛して長州まで落ちた志士の一人。

土佐と長州間の密使として活躍。

慶応元年、三条実美の意を受け、坂本龍馬の下関渡海に同行。重要人物。

8

■バルタ・リマン条約(1838)は、不平等条約の嚆矢的存在。

■光格天皇(明和8年(1771) - 天保11年(1840))の場合、

傍系の閑院宮家から即位したことが、その後の行動に影響した。

この事実があっただけに、より一層天皇らしく振舞おうとした。

その表れが、朝儀の再興であり、また朝権の回復であった。

■歴史家というのは、専門が絶対にあり、それも細かい。

私の場合、明治維新史、幕末政治史、薩摩藩、島津久光と深くなっていく。

どの時代の誰でも大丈夫!というのは、むしろ危うい。

9

■研究者が、「史料にないことは言えない」と言うと、

史料絶対主義者で想像力が著しく欠如している!と批判する人がたまにいる。

ちなみに私は、恐らく想像できないほど、想像しているかも知れない。

不用意には「言わない」また「書かない」だけかもです。

■日本人の動物愛護精神に感動した、初代駐日英国総領事オールコック

 

 

10

■元治元年4月17日、二条城での将軍家茂と小松帯刀の謁見は劇的。

■江戸城での将軍と二条城(上方)での将軍では、大きな差違があるのでは。

■朝政参与と幕府参与・御用部屋入りは、まったく異なるもの。

■勝海舟の征韓論は、姉小路公知にも通じていたらしい。

対馬藩大島友之允が「征韓の議、因循して決せず、

事機失せん歟と、歎ず」と嘆じたところ、姉小路に言上すれば、

恐らく実現するだろう。

先日、姉小路へは征韓論について切り出しておいたので、

恐らく聞き入れてくれようと、

回答している。

勝と姉小路は、短期間に急接近し対外政略を議論するまでになっていた。

また、勝は二条城において「司農(勘定奉行)、監察へ、征韓の大議を説解す。

今日、城中此議あり。俗吏囂々、皆不同意之云」と、幕閣に征韓論を詳述している。

そのため、城中では大激論となったが、誰も同意しなかった。

■勝海舟の傑出する献策として、

東アジア重視論・征韓論を挙げておかねばならない。

文久3年4月27日、桂小五郎と対馬藩大島友之允に対して、

「当今亜細亜洲中、欧羅巴人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、

彼が遠大の策に及ばざるが故なり。

続き)今我が邦より船を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、

横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、

彼が蹂躙を遁がるべからず。先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、

後支那に及ばんとす」(「海舟日記」)と論じた。

これによると、現在、東アジアにおいては西欧諸国に抵抗する国家はないが、

これは鎖国的で海軍等も興さず、

西欧諸国の帝国主義政策に遥かに及ばないためであると分析して見せる。

また、日本からアジア諸国に広く同盟関係を持ちかけ、

それぞれに海軍を勃興させなければならない。

続き)そして、兵学を研究しなければ西欧諸国の蹂躙を回避できない。

まずは隣国朝鮮と、その後清国と同盟すべきである、という趣意で、

桂らも同意している。

これを、文字通り単純に解釈し、同等の同盟と考えることはできない。

続き)勝はアジア諸国を傘下に置くという前提に立った上で、

共同で海軍を充実させ、

欧米諸国と対峙することを主張し、しかも、その魁を朝鮮に求めたのだ。

ここに、勝の征韓論を肯定する姿勢がうかがえる。

11

■幕末維新激動の年より160年、

「尊王攘夷」と「公武合体」は正しかったのか 

幕末維新史探訪2023(1)

幕末維新史の分かり難さとは①

 

 

■ちょっと前の情報だが、ミネルヴァ書房によると、

「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズで

青山忠正『孝明天皇』、

大庭邦彦『徳川慶喜』、

福岡万里子『ハリス』、

奈良岡總智『アーネスト・サトウ』、

三谷太一郎『大久保利通』、

落合弘樹『木戸孝允』が刊行予定。

全て、拝読したい。私は予定ありません。

■以前も述べたが、政治史において、人物からアプローチすることはあることだが、

個人的には慎重さを要すると感じている。

その人物が置かれた環境、身分・職位によることが大きいのか、

個人のパーソナリティー、資質によるものか、主観抜きで判断する必要がある。

前者の場合、その人物史にどの程度の歴史的意義があるのか、要検討となろう。

そうでないと、その人物が好きだからしていると思われる可能性がある。

■岩倉具視の孫、公爵岩倉具張の破天荒な人生、知れば知るほどびっくりする

 

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■島津久光の研究 

 芳即正『島津久光と明治維新』、新人物往来社、2002年 

 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』、吉川弘文館、2004年 

 町田彰浩「島津久光=幕末政治の焦点」、講談社、2009年 

 町田明広『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 』、

 岩田書院、2010年

■藤田英昭「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」

(松尾正人編『近代日本の形成と地域社会』岩田書院)

http://iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN4-87294-429-1.htm………

■坂本龍馬について、 「小松・木戸覚書」(薩長同盟)< 薩土盟約

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■テレビの影響力はバカにできない。

例えば龍馬暗殺の黒幕、薩摩藩(西郷隆盛)説、最近の幕臣永井尚志説、

いずれも実行犯を京都見廻組としており、点と点を結ぶのに苦労されている

■中川宮と岩倉具視、両雄並び立たず。

16

■山形紘『市川・船橋戦争 : 幕府陸軍撤兵隊始末』(崙書房)、

持っていたはずだが、見つからない 

⇒ よって、買おうと思ったが、どこにもない

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18

■「攘夷」によって動かされた幕末、

積極的開国論から「未来攘夷」への転換 幕末維新史探訪2023(2)

幕末維新史の分かり難さとは②

 

 

19

20

■岩下哲典さんから、

『明治日本の産業革命遺産』(勉誠出版)をご恵贈いただきました。

ありがとうございました。本書は日本近現代史を学ぶ者にとって、

必読書だと感じました。

私にとっても、非常に関心が高いポイントばかりで、拝読するのが楽しみです。 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101348

■山口県から、『 山口県史 通史編 近世』をご恵贈いただきました。

ありがとうございました。長州藩の幕末維新史を研究するためにも、

必携と存じます。 https://pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/98/184635.html

21

■老中阿部正弘(1819~57)について、やや詳しく触れたい。

全くの私見であるが、老中の双璧は田沼意次と、この阿部だと考えている。

天保14年(1843)に25歳で老中となると、

安政4年(1857)の逝去時までその地位に止まり、

12代将軍家慶、13代家定の幕政を統括した。

■阿部は安政の改革を断行したが、その基本構想は、

譜代大名に独占された老中制度を打破することであり、

それによって譜代門閥制度による幕府独裁制を修正することにあった。

つまり、朝廷と有力大名(御三家・一門・外様による雄藩連合)の協力を得て、

挙国一致体制の構築を企図したもの。

■安政の改革の背景には、直面する外交問題に対応できない、

幕府の深刻な武威低下があったのだ。

薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城と連携し、

水戸斉昭を幕政参与とし、将軍継嗣としては一橋慶喜を推した。

22

■落合直文の養父は落合直亮であり、直亮は三田品川戦争

(薩摩藩邸焼き討ち事件)での数少ない生存者。

■慶應期の薩摩藩研究をすることは、同時期の長州藩研究でもあり、

坂本龍馬伝説へのチャレンジでもあった。今も継続中。

■五代友厚は幕末維新史で重要なキーパーソンの一人であり、

拙著『グローバル幕末史』でも多くのページを割いている。

しかし、ほぼ無名に近く、せいぜい開拓使官有物払下げ事件での悪役で

登場するレベルであった。

 

 

■中村半次郎こと桐野利秋について。

西郷隆盛は桐野と実際にはどの段階で知り合いになったのか?

私が確認する限り、西郷書簡(大久保一蔵宛、元治元年6月14日)に初登場する。

■西郷は桐野利秋(中村半次郎)について、尊王志士激徒に潜り込み、

長州藩邸にも自由に出入り可能で、唯一の情報源となっている。

外国船襲来もあるので長州藩内に潜入することを桐野が求めており、

小松帯刀と相談して許可を得たので、脱藩の体で送り込むことへの了解を求めた。

■西郷は、桐野が今まで通りの本物の「暴客」になってしまうかは

分からないとしながらも、ちゃんと戻ってきたならば、

長州藩の実情を委細知ることができるとした。

今後、生死を共にする桐野とこの段階で出会ったことが分かるが、

まだ信頼感が醸成されていないことが窺える。

■史料上では、西郷と桐野の出会いは、

西郷が沖永良部への遠島から帰還後であり、

その前から西郷が桐野を知っていた可能性はかなり低いと考える。

ちなみに、西郷は大久保宛に書簡を認めているが、

久光や藩主茂久(明治以降の忠義)も読むことを前提としている。

■桐野について、西郷書簡(大久保一蔵宛、元治元年6月21日)によると、

桐野を始めとする密偵は国境警備が厳しかったため、

長州藩内潜入が叶わなかったことを伝えている。

いずれにしろ、禁門の変、第一次長州征伐の前から、

西郷と桐野の関係が生じていることに注目。

■ちょうど5年前の読売新聞夕刊全国版「よみうり堂」で

西郷隆盛関連本で読んで欲しい本を紹介しました。

今からでも是非、ご一読ください!なお、紹介した本は以下の通りです。

 家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ』

(ミネルヴァ日本評伝 選)

 粒山樹『維新を創った男 西郷隆盛の実像』

(扶桑社、2017/11/1)

 松尾千歳『西郷隆盛と薩摩(人をあるく)』

(吉川弘文館、2014/2/14) 

先崎彰容『未完の西郷隆盛: 日本人はなぜ論じ続けるのか』

(新潮選書、2017/12/22) 

拙著『歴史再発見 西郷隆盛 その伝説と実像』

(NHK出版、2017/12/25)

■御楯隊総督・太田市之進は、慶応元年(1865年)に御堀耕助と改名している。

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■西郷隆盛は「下級城下士」です。薩摩武士全体では、真ん中より上です。

■安政6年(1859)8月23日、トーマス・ブレーク・グラバーが

「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。

グラバーは、言わずもがなながら、小松帯刀・五代友厚(薩摩)、

坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した。

24

■そう言えば以前、山内家本家は「やまうち」、

分家、庶家は「やまのうち」と呼び分けていると伺った記憶がある。

■『忠義公』『玉里』を同時並行で。『維新史料綱要』も時々参照。

■幕末貿易におけるイギリスの比重は他国を圧倒している。

開港直後は、アメリカも30%程度占めていたが、南北戦争で脱落した。

ちなみに、輸出で見ると、文久3年81.5%、慶応元年88.3%。

輸出でも同傾向が見られ、ほぼイギリスの寡占状態。

大英帝国の自由主義貿易の一環に組み込まれていた。

■南北戦争(American Civil War, 1861年- 1865年)は、

幕末史に甚大な影響を与えている。

アメリカは日本どころではなかったから。

余った武器のはけ口も必要だった。

25

■小松帯刀の肩書の一つに、大坂府知事がある。

■幕末史前半は「公武合体」ではなく

「未来攘夷」と「即時攘夷」の対立だった

 幕末維新史探訪2023(3)幕末維新史の分かり難さとは③

 

 

26

■嚶鳴社については、拙著『グローバル幕末史』

第四章「長州藩の世界観-過激攘夷の深層」で言及しております

http://soshisha.com/book_wadai/books/2152.html………

■慶応期の薩摩藩研究をする場合、

坂本龍馬は併せて研究対象としなければならないはず。

しかし、今までの研究ではそこが等閑視。研究者といえども、

先入観などに囚われていたのかも知れない。

(ブログ主:元広島藩士林謙三等と共に薩摩から俸禄を得て、

薩摩海軍に所属していた時期あり)

■佐々木克さんまでは、大久保利通を中心とした大久保・西郷史観的な叙述。

芳即正さんから島津久光が加わり、私から更に小松帯刀が加わった。

私は久光・小松史観。更に、幕末史全体を俯瞰して薩摩藩を捉える意識あり。

27

■幕末期の五代友厚は、まったく侮れない。極めて要注意人物である。

■四侯会議直前の薩摩藩内の動向について、その理解が必須。

■何礼之が長崎で開塾した英語私塾が気になっている。

白峰駿馬や陸奥宗光も塾生。

■町田久成(1838~1897年)は、江戸の昌平坂学問所に就学後、

薩摩藩大目付となり薩英戦争に参戦。

薩摩スチューデントの監督者を務め、明治新政府で外務大丞、

文部大丞を歴任。東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)の初代館長に就任。

出家して近江三井寺光浄院の住職となり、1897年に逝去。

28

■吉川弘文館『明治維新人名辞典』は1981年刊行。

そろそろ、最新の研究成果を反映した辞典が欲しいところ。

■保谷さんは『戊辰戦争』の中で、鳥羽伏見の戦いに関連し、

正月3日段階で新政府軍(薩長側と表記)は4000~5000人としている。

(ブログ主が思う内訳、年末に進発した薩長芸軍約6500人、

薩長4500~5000人、在京薩兵は誤差の範囲)

 

 

29

■名前は難しい。例えば、姉小路公知は、あねがこうじ「きんとも」なのか、

「きんさと」なのか。

慶喜は、いつから「よしのぶ」なのか。

■同じ書物を読んだとしても、全員が橋本左内や岩瀬忠震にはなれない。

■慶応元年、木戸孝允の薩長融和に向けた独断専行にまったをかける広沢真臣。

しかし、薩摩藩による武器購入名義貸しから態度が激変する。

広沢研究、今できないが、必要な部分。

■学士論文「長幕交渉史における吉田稔麿の事績に関する一考察」

 修士論文「文久三年の中央政局と西国問題について―朝陽丸事件を中心にして― 」

 博士論文 「文久期中央政局における薩摩藩の動向」

 よって、私が長州藩をすることに、違和感はない。

いま、慶應期の木戸孝允にもフォーカス

■会津藩の研究が見当たらない。慶應期薩摩藩の研究には必須。

ある程度は自分でするが、長州藩ほどには入れない

■ネットワークの重要性を痛感する日々。

せかっく凄いネットワークを持ちながら、それを活かせてない人もいて、

頗るもったいない。

30

■光格天皇―仁孝天皇―孝明天皇と続くが、仁孝天皇研究も重要と考えながら、

できていない

■小笠原唯八、幕末期土佐藩のキーパーソンの1人。

■慶応期薩摩藩を研究する場合、当然、長州藩もしなければならないが、

慶応元年末頃から越前藩も出てくる。

更に、慶応期が深まるにつれ、宇和島も。

伊達宗城史料もそこそこ集めており、どのくらい時間がかかるのか、

途方に暮れる。

■純粋にアカデミックな批評か、誹謗抽象的な批評かは、

批評いただくと即分かるもの。

■西郷隆盛のいわゆる征韓論について、もっと突っ込んでみたい。

■内田政風書簡に登場する「遠武」とは、薩摩藩士の遠武秀行と断定。

手こずった

■時間がないという言い訳で、手抜きをしてはダメ。自戒。

省力化と手抜きは違う。

■正親町三条実愛と朝彦親王の日記を読み漁る。

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■元治元年9月の西郷隆盛の書簡、西郷吉之助はアウト、大島吉之助はセーフ。

■率兵上京の際、1000人もの兵士はどこに宿泊し、

また、食糧の確保はどうしたのだろうか。

島津久光然り、小笠原長行また然り。

(ブログ主が思うに、京都市内の寺院を徹底調査すれば、

様々情報が得られるのでは)