1日

■徳中卿 = 徳川慶喜

■中山忠能、中山忠愛、中山忠光、正親町公董。この親子は絶対に面白い。

■長崎海軍伝習所第1期(安政2年、1855)は、

総監:永井尚志、教授:ペルス・ライケン、

幕臣:勝海舟、矢田堀景蔵、永持亨次郎、鈴鹿勇次郎、中島三郎助、小野友五郎、

春山弁蔵、浜口興右衛門他7名、

薩摩藩:木脇賀左衛門、川村純義、五代友厚、佐賀藩:佐野常民、真木安左衛門、

津藩:柳楢悦

2日

■会津藩関連で調べる際に使用しているのは、

例えば『七年史』、『京都守護職始末』、 『会津藩庁記録』、『会津松平家譜』、

『幕末会津藩往復文書』、『稽徴録』あたり。ちゃんと見なければいけないが、

なかなかすべては見切れない・・。

3日

■鹿児島の近現代を中心とする資料保存・活用などを行う研究拠点として、

鹿児島大は1日、「『鹿児島の近現代』教育研究センター」を

鹿児島市の郡元キャンパス内に設立した。

 鹿大によると、県内の他の機関では、幕末・明治維新期より前の資料収集・保全が中心。

同センターは、近現代の1次資料の収集・保存を進めながら、資料の活用に向け、

データベース化とデジタル化を行う。

 学校への出前授業や市民向けの公開講座なども計画。

また、まちづくりや観光・農水産業などの地域振興に研究成果を還元する

文理融合的なプログラムも実施する。

 1日に開所式が行われ、佐野輝学長は「世界に誇れる鹿児島の地域資源を用いた

教育・研究活動を推し進めていきたい」とあいさつした。

日本近代史などを専門とする4人の特任教員を新たに迎えるという。

■新城市設楽原歴史資料館から、『岩瀬忠震西征日記注解』をご恵贈いただきました。

ありがとうございました。

岩瀬研究には必須の史料集と存じます。大いに活用させていただきます。 https://tonichi.net/news/index.php?id=81218

■摂関家の久我建通アレルギーは相当なもの。

■田中河内介の最期について、明治天皇が宮中の無礼講宴で重臣達に尋ね、

座がしらけた話があります。明治2年とあるだけで、宴会が行われた月日、

場所は不明です。松田清先生から伺いましたが、

この話の典拠は、

伊藤痴遊「維新秘話」(痴遊全集第10巻)の1章「無礼講の宴 寺田屋事変と大久保」でした。

豊田小八郎『田中河内介』(臥龍会、昭和18年3月刊)304~8頁に

伊藤痴遊の講談を小説風に書き直したものが出ており、

末尾に「痴遊氏の講談は、痴遊全集及び週刊朝日に載っているゐる」との典拠情報があり、国会図書館デジタルコレクションの『伊藤痴遊全集』(平凡社、1931)を調査されました。

伊藤痴遊は、小河が明治天皇に実情を打ち明けた際、

大久保に責任があると付け加えたので怒りを買い、

そのため小河が堺に左遷された、との説を語っています。

田中河内介をめぐる明治天皇・小河一敏・大久保利通に関するこのエピソードについて、

これ以外に何かご存じの方はお知らせください。

なお、豊田小八郎『田中河内介』は、本書末尾の「跋に代へて」3頁によれば、

豊田の教え子、鈴木貫一が豊田の「田中河州公伝」原稿(漢文口調の名文)を

一般読者向きに口語体の平易なものに書き直して、

書名も「田中河内介」を改めて刊行した、といいます。

続き)「田中河州公伝」原稿の所在、こちらも何かご存じの方はお知らせください。

■歴史学で、ラゴダ号事件に関心を示してくれた学生がいて感激したことがあった

■昔々、大河ドラマは半年で完結があった。

前島密とか、半年大河でどうか。

JBpressで前島について、東京遷都に関わって少し書いたが、メチャ面白い経歴。

4日

■久坂秀次郎の誕生日は、元治1年(1864)9月9日。

久坂玄瑞は、同年7月19日の禁門の変で戦死しているので、

父の久坂とは会ったことがない。

母は、京都島原の桔梗屋抱え芸妓、久坂の愛妾・辰路とのことだが、確定ではないらしい。

■『久坂家略伝』によると、久坂秀次郎の生母について、

戸籍で証明できる「井筒タツ」を生母名にしているとのことらしい。

一方で、『久坂玄瑞全集』の「久坂家略系」を見ると、

母の名は「(井筒太助二女)井筒タツ(佐々木ヒロともいう)」となっている。

これ以上の詮索は、私にはできない。

■久坂秀次郎は生母があやふやであるばかりか、どこで生まれて、どう育ったのか、

そもそもなぜ久坂玄瑞の実子とされたのか、現時点では不明とされる。

とは言え、容姿が久坂玄瑞にそっくりであったとのことで、

世に知られる有名な肖像は、この久坂秀次郎がモデル。

■林子平は、寛政3年(1791)にようやく全巻が刊行された『海国兵談』の中で、

主としてロシアの南下に対して、江戸湾防衛や富国強兵など、

斬新な国防論を展開している。

また、『三国通覧図説』を三国侵略の手引書と解説し、朝鮮蔑視論を展開した。

続き)林子平は『海国兵談』の中で、三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵を賛美しており、

対外侵略論、征韓論に発展する起点として重要である。

林子平の歴史的意義は、もっと認識されるべきであろう。

5日

6日

■『新説 坂本龍馬』では、今まで以上に久坂玄瑞、間崎哲馬、近藤長次郎、

そして福岡孝弟等を意識しています。

https://www.shueisha-int.co.jp/publish/%E6%96%B0%E8%AA%AC-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC

 

■慶応4年(1868)3月13日、

パークスは東海道先鋒総督府から派遣された西郷隆盛の名代と会談し、

徳川慶喜の助命は列強の意に叶うとし、

また、戦争による貿易の阻害を阻止するためとして、横浜駐屯を示唆した。

イギリスは新政府を支持していたものの、内乱回避のためには、

結果として内政干渉を行った。

こうしたパークスの圧力は西郷の方針に大きな影響を与え、

3月14日の勝海舟との会談で譲歩した要因ともなった。

一方でこれを外圧として板垣退助らの過激な主戦論を退けた。

パークスの圧力も相まって、慶喜は寛典に処され、江戸は戦火を免れたのだ。

なお、パークスは閏4月1日に大坂城にてビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出し、

外国による新政府の最初の正式承認を行った。

これによって、列強の帰趨は大きな影響を受けたが、

西郷と何らかの取引があったかも知れない。

■このあたり、【ザ・プレミアム 時空超越ドキュメンタリードラマ「江戸城無血開城」

勝海舟と西郷隆盛の会談で有名な江戸城無血開城。

英国の外交官を中心に、無血開城への動きをドラマとドキュメンタリーで読み解く】

で時代考証しましたが、再放送を期待したいです!

 

 

■慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)4月4日、

西郷は勅使橋本実梁・柳原前光らわずか6名で江戸城に乗り込み、これを接収した。

ここに、名実ともに江戸幕府は終えんを迎えた。

江戸が灰燼に帰さなかったことは、近代日本への移行を考えた場合、

絶対に必要な条件の一つであった。

■第57回 生麦事件~幕府崩壊に導いた『英国書簡』

https://bs11.jp/lineup/2016/11/post-3218.html……… おっ!懐かしい

■『新説 坂本龍馬』、坂本龍馬で最も重要なのは慶応2年(1866)だと思っています。

拙著でも、そこがユニークです。

https://www.shueisha-int.co.jp/publish/%E6%96%B0%E8%AA%AC-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC

 

7日

■京都留守居役一覧、欲しい

■伝記ではなく、人物を主体として論文を書くことは難しい。

どこにポイントを置くか超重要だが、そこが難しい。。

■今から3年前の2019年10月7日、拙著『新説 坂本龍馬』(集英社インターナショナル)

が上梓されました。

薩摩藩研究からの産物ですが、新しい龍馬論です。

https://www.shueisha-int.co.jp/publish/%E6%96%B0%E8%AA%AC-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC

 

8日

■今年の年1論文では、四侯会議に至らず。。慶応3年3月まで。

これから慶応3年の9ヶ月間で何年かかるのだろうか。。

9日

10日

■武田正昭『戊辰戦争における草風隊々長・村上求馬氏に関する研究』(平成28年)

、未入手

■『新説 坂本龍馬』は、龍馬研究の現在地点の確認と新しい視角からの問題提起です。 

https://www.shueisha-int.co.jp/publish/%e6%96%b0%e8%aa%ac-%e5%9d%82%e6%9c%ac%e9%be%8d%e9%a6%ac

11日

■『薩長同盟論』(人文書院、2018年12月)は、専門書と一般書の中間というオファーでした。結果、かなり専門的な筆致になっています。

逆に、『新説 坂本龍馬』は分かりやすくをモットーにしました。

まずは『新説 坂本龍馬』、その後『薩長同盟論』はいかがでしょうか。

12日

13日

■中国では、下関条約を「馬関条約」としている。

このあたり、一考する価値ありでは。

■中国の世界史では、日露戦争の記載がない。

本日、留学生の院生と話していて分かった。

日本とロシアが戦争したことがあると、初めて知ったと言われた。

14日

■今日は鉄道の日。明治5年9月12日(新暦1872年10月14日)に、

新橋駅(後の汐留貨物駅、現・廃止)と横浜駅(現在の根岸線桜木町駅)とを結んだ

日本初の鉄道(現在の東海道本線の一部)が開業したことを記念したもので、

翌1922年から鉄道記念日として鉄道省により制定されたとのこと。

■長州ファイブの一人、井上勝は日本の鉄道の父と呼ばれる。

拙著『グローバル幕末史』第8章参照ください(^^) http://soshisha.com/book_wadai/books/2152.html………

15日

■文久3年10月15日、島津久光は朝彦親王に対して思い切った建言を行った。

これによると、

「朝廷之御旧弊モ被為在候御事と奉存候間、

伏願ハ以来奉始至尊、左右輔弼之公卿方屹度天下之形勢人情事変御洞察、

永世不抜之御基本相立候様遠大之御見識相居り、

聊之義ニ御動転不被為在候処専要之義と奉存候、

勅命夕改御政令之軽ニ出候は、自古衰世之習ニ御座候」

として、孝明天皇を始め、朝議構成員に対して遠慮なく新しい国是の樹立を請い、

尊王志士等の勧説に動揺して勅命暮改なきように求めた。

更に、「列藩上京之上天下之公議御採用、大策御決定被為在度御事と奉存候」と、

諸藩連合の意見を採用して国是を確立すること強く懇請した。

朝彦親王を通じてではあるが、孝明天皇に直接この間の内省を促しており、看過できない。

このような大胆な意見開陳ができる武臣は久光のみであり、

朝政参与を既に意識した発言と考えたい。

16日

■当たり前と決めてかかると、見えなくなることがある。

読み違えることがある。例えば、一会桑。

17日

■「癸丑以来(きちゅういらい)」 は、幕末志士の間で盛んに使用された語。

癸丑はミズノトウシ、嘉永6年(1853年)、ペリー来航の年。

18日

■平田篤胤(1776~1843)は対外的危機感や社会不安に直面しており、

儒教・仏教と習合した神道を批判し、皇道の発揚を唱導した。

宗教的神秘的色彩が濃厚であり、

儒教・仏教に加えて蘭学やキリスト教まで援用して、平田国学を確立した。

■平田篤胤の思想は水戸学に影響を与え、

更には尊皇攘夷運動の大きな支柱となった。

なお、維新後は、神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えた。

もっと勉強したいのだが、余裕がない・・。

■後期水戸学は、儒教の要素を加えて国学をアレンジし、

東アジア的華夷思想の中心に天皇を据えて、尊王攘夷思想の勃興を齎した。

「幕府、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、

すなはち卿・大夫、諸侯を敬す」(藤田東湖「正名論」)と唱え、

後期水戸学では幕府の存在を認めた。

幕府が朝廷を尊奉すれば、大名は幕府を崇拝し、

家臣は大名を尊敬するという上下の秩序論を展開し、

徳川公儀体制の維持は何ら問題はなく、大政委任も是としている。

当時の武士は、多かれ少なかれ、この思想に感化されており、

後期水戸学の影響が見られる。そして、水戸は聖地となった。

19日

■池田長発は、浪士取立の時の目付。

20日

21日

22日

23日

■後藤敦史さんから『阿部正弘 挙国体制で黒船来航に立ち向かった老中』(戎光祥選書) をご恵贈いただきました。ありがとうございました。

 待ちに待った阿部の評伝、

じっくり拝読して現在執筆中の新書でも参考にさせていただきます。

 

 

■岩下哲典さん、藤田英昭さん、和田勤さんから

『江戸無血開城の史料学』(吉川弘文館)をご恵贈いただきました。

ありがとうございました。

尾張・越前藩、勝海舟、山岡鉄舟などの史料から江戸無血開城を紐解く必読書です。

勉強させていただきます。

 

 

24日

■最近、死ぬ間際まで仕事し続けている気がしてならない

■孝明天皇と島津久光の関係について、

文久2年の率兵上京以降、天皇は絶大な信依頼をし続けたが、

元治元年1月の晃親王還俗問題から、両者間に亀裂が入った。

詳しくは、拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復―』 (岩田書院、2010年)を参照ください。

■拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復―』 

(岩田書院、2010年)

http://iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-643-7.htm………

■禁門の変について、薩摩藩では西郷吉之助がメインとされるが、

総司令官は小松帯刀である。

小松曰く、「大島(西郷)・いちゝ(伊地知正治)其外皆々下知ニ而、莫大之働ニ御座候」。

また、孝明天皇の動座が何度も検討されたが、

その都度、慶喜は小松を伴い昇殿し、それを阻止した。

■禁門の変後の長州征伐について、

会津藩に匹敵するほど、薩摩藩も積極的であった。

将軍家茂による進発を最上策としながらも、

叶わない場合は慶喜の名代による総督就任を期待した。

更に、次策として、松平春嶽の登用を図ることになる。

小松帯刀と西郷吉之助は、越前に海江田武次を派遣した。

25日

26日

■木戸孝允の史料を読み込むと、坂本龍馬の立ち位置が掴める。

■岩倉具視はもちろんのこと、木戸孝允の史料も読み込めていない。焦る

27日

28日

■論文「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英交渉を中心に」脱稿。

29日

30日

■目的を定めた場合、それを実現するためには戦略が必要である。生易しいレベルでは、簡単に目的を攻略できない。

31日

■訳あって、光格天皇を調べる。孝明天皇の祖父。

■芸州藩が、キー藩。

■【八月十八日政変に関する論文】

①芳即正「文久三年八月十八日の政変と島津久光」

『明治維新史学会報』第39号、2001年

②佐々木克「文久三年八月政変と薩摩藩」

『人文学報』第87号、京都大学、2002年(加筆の上、佐々木克『幕末政治と薩摩藩』

吉川弘文館、2004年に再録)

③原口清「文久三年八月十八日政変に関する一考察」 

明治維新史学会編『幕藩権力と明治維新』吉川弘文館、1992年 

(『原口清著作集1 幕末中央政局の動向』岩田書院、2007年に再録)

④町田明広「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について

‐八月十八日政変を中心に‐」

『日本史研究』第539号、2007年

⑤森下環「中川宮の八月十八日政変参画の素因について」

『皇學館史學』第9号、1994年