1日

2日

■英国政府からの文書そのものに「久光首級」とあったとする史料はなく、

犯人(実行犯)の処刑と記載が妥当か。

この犯人を広義で捉えると最高責任者・久光と取れないこともなく、

実際、英国外交官は久光を非難している。

こうしたことから、幕閣の中に犯人=久光と脳内変化した者がいたかも知れない。

■繰り返しになるが、松方正義や黒田清隆、

どうしても明治期の首相や大蔵大臣などとして関心がもたれるが、

実は幕末期の彼らも重要であり、個人的には強く意識している。

島津久光の傍近くにおり、また生麦事件、「小松・木戸覚書」(薩長同盟)にも欠かせない。

日本史籍協会叢書『幕府征長記録』、読み難いのだが元治慶應の必須史料。

■薩英戦争については、

拙著『グローバル幕末史』第五章 薩摩藩の世界観-斉彬・久光に見る現実主義

を参照。

 

 

 

『福翁自伝』、史料としても侮れない。

3日

■木梨精一郎は、慶應4年3月14日(諸説あり)にパークスと会談し、

それが江戸無血開城に影響したと言われながら、極めて影が薄い・・。

■元治元年(1864)を扱った拙稿として、

「元治国是の確立と大政委任」

「元治元年前半の薩摩藩の諸問題―小松帯刀の動向を中心に」

「元治元年の中央政局と薩摩藩―禁門の変に至る道程」

「禁門の変における薩摩藩の動向」、

「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に―」があります。

■薩摩藩は、禁門の変では一会桑勢力と共闘したものの、

第一次長州征伐の過程で抗幕姿勢に舵を切っていくが、

確立した島津久光・小松帯刀体制の下、慶応期の中央政局において、

薩摩藩は反幕府勢力の主役として、幕府との対決姿勢を強めることになる。

続き)この間の中央政局の動向の中で、

小松帯刀が島津久光の名代として勅命すら事前承認を得ぬままに拒否できる

などの地位を得ており、これは薩摩藩における久光・小松体制が確立していた証左である。

■孝明天皇から厚い信頼を得ていた徳川慶喜は、着々と準備を進め、

慶応2年(1866)12月5日、在京諸侯の推戴を得たとして、いよいよ第15代将軍に就任した。

政局運営を安定させたい慶喜は、幕府中心主義から方針転換を計り、

有力諸侯との連携を模索し始めた。その矢先に不幸が襲う。

■慶喜の将軍就任後、僅か3週間後に思いもしない悪夢が慶喜を襲った。

慶喜の最大の庇護者・孝明天皇が天然痘で12月25日に薨去されたのだ。

幕府を庇護していた天皇の崩御は、あまりに突然であり、

在位21年、36歳という若さであった。

■孝明天皇はその治世において、大きな精神的ストレスを抱えたため、

死の直前には心身ともに相当なダメージがあり、ぼろぼろな体調であったのではないか。

在位期間にペリー来航、通商条約の勅許問題、戊午の密勅、安政の大獄、和宮降嫁、

八月十八日政変、禁門の変、長州征伐があった。

■孝明天皇の治世には、

一生の間に一つも経験ができないような大事件が連続してあった。

しかも、朝廷内での政争が継続し、まさに内憂外患の中で、

孝明天皇は気が休まることなどなく、常に精神的ストレスと病気に苛まれていたのだ。

天皇は激動の時代に翻弄され、その犠牲となったと言えよう。

4日

■中山忠光は、攘夷戦争に公家出身で参加した唯一の人物

5日

■駐日イギリス公使パークス書簡翻刻シリーズ第1巻

『駐日イギリス公使パークス・英国外務次官ハモンド往復私信 幕末期編』

(英文翻刻・注釈版)編集:ロバート・モートン。

必要部分を訳し始めて2年。

■重要(なはず)なのに、よく分からない人物。長州藩の伊藤伝之助、

薩摩藩の志々目献吉。

■1863年7月5日(文久3年5月20日)、朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件)。

関博直「姉小路公知伝」(博文館、明治38年)が唯一の本格的な伝記。

覆刻はないのでは・・。

6日

■「尊王攘夷」と「公武合体」は対立概念ではないと言い続けているが、

実態は道半ば・・。というか、端緒についた感じか。。

7日

8日

9日

10日

■佐久間象山は、元治元年(1864)4月3日に幕府から海陸備向掛手付雇を命じられ、

扶持方二十人手当金拾五両を給された。上京後、暗殺までの僅かの期間に、

弾正尹朝彦親王「中川宮」、常陸太守晃親王、禁裏守衛総督徳川慶喜、

大将軍徳川家茂に謁している。同郷の者として、いつか講演してみたい。

■繰り返すが、広沢真臣には、もっと注目すべきであろう。

朝陽丸事件で初めて関心を持ったが、慶應期の長州藩、

新政府の発足時における動向は重要。

現在、慶應2年の広沢について調べているが、やはり欠かせない人物と痛感。

■徳川昭武は、水戸藩最後の藩主。徳川斉昭の第18男。慶喜の実弟。

元治1(1864)年兄昭訓の急死により、御所守衛に任じられ、

7月の禁門の変時に常御殿東階付近を警衛、11月京都警衛の功を賞されて従五位下、

民部大輔。同年末、天狗党の西上時、

禁裏守衛総督慶喜の命で追討軍先鋒として東近江路を進軍。

■徳川昭武は、天狗党征討のため出陣したが、

総攻撃予定日に武田耕雲斎らが加賀藩に降伏したため帰京。

慶応2(1866)年11月清水家襲封。慶喜の営内に居住。

従四位下左近衛権少将。

翌3年パリ万博に向山黄村以下28名を率い将軍慶喜の名代として参加。

■徳川昭武は、締盟各国訪問後にフランス留学、徹底したフランス語教育を受ける。

明治1(1868)年明治維新により慶喜が水戸で謹慎中と知り留学を断念、

帰国後水戸藩襲封。同2年旧幕軍追討のため江差へ。同年版籍奉還、藩知事となる。

■徳川昭武は、明治3年(1870)に北海道開拓を志し旧藩士と天塩5郡に入植、

のち帰藩。同4年廃藩置県により藩知事免官。

同9年フィラデルフィア万博見学のため渡航後、フランスに再留学。

同14年帰国し松戸に隠居。

■徳川昭武が隠居した戸定邸は、松戸市HPによると、

明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物。

約2年の建設期間を経て1884年4月に座敷開きが行われた。

増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23に及ぶ。

旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値が高く評価されている。

■徳川昭武のパリ行きの同行者は、

外国奉行・向山一履、博役・山高倍離、医師・高松凌雲、田辺太一、杉浦譲、

昭武督護役の水戸藩士7名、伝習生、 

商人で万博に参加した清水卯三郎なども含め総勢33名であった。

維新後、新政府で活躍する人物も少なからず含まれた。

11日

12日

13日

■元治元年(1864)年8月、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊による下関砲撃事件があった。

英国の旗艦ユーリアラス・仏艦セミラミス等、

17隻が下関の前田・壇ノ浦諸砲台を砲撃し、

前田浜で砲撃支援の下で陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠して砲を破壊した。

続き)奇兵隊は奮戦したが、その間の記録は、奇兵隊日記には何故か見当たらない。

その時の指揮官は赤根武人であり、その奮戦が記述されていた可能性が高い。

続き)8月8日、講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い、

井上馨は伊藤博文と共に、講和使節として英国艦に行くが、この時は失敗。

10日、井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行くが談判ならず。

14日、高杉晋作に従い外国艦に行き、講和条約を締結した。

続き)キューパー英国海軍提督は、長州藩の砲撃に関し、賠償金を要求した。

高杉晋作は朝廷・幕府の命によるもので、長州藩の私意によったものではない。

四国公使から幕府に請求するのが筋であると突っぱねて、

その要求を回避することが叶った。これは高杉の機転によるもの。

続き)高杉晋作の談判については、逸話が多い。

前年、朝陽丸事件の解決談判に赴く吉田稔麿に高杉は会っており、

その時の装束等を参考にしたという話もある。

なお、稔麿と晋作は相当親しい関係で、晋作が亡くなった際には、

稔麿の遺族は形見分けまで受けている。

■オールコック公使から下関遠征計画の報告を得たラッセル英国外相は、

7月26日付訓令の中で、下関遠征計画を否定し、

外国貿易に好意があると思われる勢力への積極的な支持を要求している。

これは長州ファイブの山尾庸三・遠藤謹助・野村弥吉によるロンドンでの外交工作が影響している。

■長州ファイブのロンドン外交については、

拙著『グローバル幕末史』

第九章「ロンドン薩長同盟―幕末史を動かした留学生ネットワーク」

第2節「長州ファイブの対イギリス工作」

【長州ファイブと外交官ラッセルの会談―外交権奪取による無血倒幕】

【長州ファイブ、英国政府を動かす】を参照ください。

■朔平門外の変については、

拙稿「幕末中央政局における朔平門外の変」(『日本歴史』713、2007年)、

『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社メチエ、2019)、

『幕末文久期の国家政略と薩摩藩』(岩田書院、2010年)参照。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195391………

14日

15日

16日

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18日

19日

■慶応3年(1867)12月25日、三田品川戦争(薩摩藩邸焼き討ち事件)が勃発。

関東一円で乱暴狼藉を働く浪士を匿っているとし、

薩摩藩邸を取り囲んだ庄内・松山(庄内支藩)軍が一斉に砲撃を開始し、

邸内に突入した。

立て籠もる170名ほどの浪士や薩摩藩士との戦闘は5時間に及び

一帯は烈しい戦闘と化した。

続き)一部の浪士らは脱出に成功し、

追手を撹乱するため放火しながら品川方面に遁走、

薩摩藩・翔鳳丸で上方への脱出に成功した者もいた。

続き)なお、三田品川戦争については、

拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察 -「三田品川戦争」への再定義」

(軍事史学 56(3) “特集 維新の戦乱と江戸平定”、2020年12月)を参照してください。

■長州藩海軍の発祥の地として、恵美須ヶ鼻造船所跡は個人的に注目している。

20日

■中山忠光の伝記、1931年の正親町季董『天忠組主将中山忠光』以来ないとのこと。

もう90年、そろそろ何とかしないと。意中の研究者、ありですが。

■明治3年7月20日(1870年8月16日)、小松帯刀が亡くなった。。

同年12月13日、大久保利通は墓参している。

小松の訃報に接し、西郷隆盛がどのような思いであったか、興味がある。

■明治16年7月20日、岩倉具視が死去。岩倉に深入りすると火傷しそうだが、

いずれ火中の栗を拾いに行かねば!

21日

22日

■<今からちょうど157年前、元治1年7月23日、

「横浜鎖港談判使節池田長発・河津祐邦・河田煕等、帰朝す。

是日三人、書を幕府に上りて復命し、且海外の形勢を説き鎖港の不可を論じ、

弁理公使の派遣、列国との締盟、海外留学生の派遣、

欧米諸新聞社との通信交換及邦人の海外渡航免許の必要を詳説す。

明日、幕府、其使命を果さざるの故を以て、長発の禄六百石を削りて隠居蟄居を、

祐邦に小普請入逼塞を、煕に小普請入閉門を命ず」。>

池田長発について、拙著『グローバル幕末史』で大きく取り上げています。

 

 

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『池田慶徳公御伝記』には、思いがけない史料が散見されるため、侮れない。

幕末、鳥取藩は要注意。

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