1日
■中山忠愛は慶應期には影が薄い。
一方で、例えば正親町三条実愛の日記(慶応2年)には、頻繁に文通している形跡がある。
■「明治6年政変」、実は久しく新刊がない。論文は存在。
2日
■先行研究について、相当念入りにしておかないと、思わぬ見落としがあるかも知れない。
見落とした場合、気絶するほど恥ずかしい。
また、論文執筆中、または査読中に、同じ論旨が活字化された時の衝撃も、
卒倒するほどメガトン級である。
■山口市と言えば、大村益次郎、井上馨、広沢真臣、寺内正毅。意外と、
山尾庸三がいけるかも。啓蒙啓発活動に一役買いたい。
■誠忠組ついて、島津斉彬死後、その遺志を継いで国事に尽くそうと結束した約40名の、
主として下級藩士の一団であり、
お由羅騒動で弾圧された斉彬擁立派の子弟が多く含まれる。
水戸や越前の同志と連携して井伊直弼の暗殺や、京都守衛のための突出を目指した。
■リーダー格が大久保利通である誠忠組に対し、
安政6年(1859)11月5日の藩主茂久名で出された諭告書は、
島津久光の最初の意思表示であると同時に、
藩の正規機構を無視して藩主から直接藩士に下賜された、
極めて異例なものであった。
その異例さに、久光の国事周旋に向けた不退転の決意が感じ取れよう。
■この時点で、既に門閥は無視された格好となったが、
諭告書には「方今世上一統動揺不容易時節ニ候、万一事変到来之節ハ、
第一順聖院(斉彬)様御深意ヲ貫キ、以テ国家奉護天朝ニ可抽忠勤心得ニ候」
(『忠義公史料』)と、
変事の際に、藩を挙げての国事周旋・朝廷尊奉の実行が謳われていた。
■この諭告書は事実上、久光の藩政親政宣言であると同時に、国事周旋宣言であった。
併せて、誠忠組を取り込むための、極めて政治的なものでもあったのだ。
加えて、これは誠忠組を始めとする藩内諸勢力が絶対視する亡兄斉彬の遺志でもあり、
久光も斉彬の生前からその方向性を支持していた。
■国事周旋への邁進を企図する誠忠組を掌中に収めるため、
久光は率兵上京を前提とする周旋を意識せざるを得ず、
それは久光の強い意志でもあった。
率兵上京を伴う国事周旋の成功は、
光の圧倒的な対外的評価に繋がり、
藩内における反対勢を封じ込める絶対的な事実となり大きな武器となり得た。
3日
4日
■慶応2年4・5月、大原重徳は頻繁に正親町三条実愛を訪問したり、
書簡を送ったりしている。
5日
■ある部分だけ切り取られると、真逆の意見として発信されてしまう可能性がある。
その前後を含め、自分自身で全文を読むことが肝要。
■正親町三条実愛は、『嵯峨日記』の中で「長橋局」を採用。
■慶応2年、正親町三条実愛と近衛忠房(内大臣)の接触は、連日の如く。
■池田屋事件と言えば、中村武生さんの『池田屋事件の研究』(講談社現代新書)。
なお、『松陰先生と吉田稔麿 増補』(マツノ書店)に
拙稿「池田屋事変における吉田稔麿」が付録として所収。
以下でパンフレットPDFが、まだご覧いただけます(^^)
■慶応2年6月19日、水野忠精から朝彦親王に鯉2尾、暑中見舞いとして到来。
なんとまさにその日、水野は老中を解任されている。
■同じ史料でも、時間をおいてもう一度見てみると、新しい発見をする場合がある。
見落としていたこともあり、重要史料は面倒でも繰り返し見るように心がけている。
なお、史料は私物化すべきでなく、広く公開すべきもの。
ましてや、個人的な好悪で特定の人間を排除するなど、あってはならない。
■朝彦親王は、慶応2年6月段階で正親町三条実愛と大原重徳を名指しで批判。
加えて、薩摩藩。
■平岡円四郎について、世間では「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、
幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず
平岡・黒川に在り」(『徳川慶喜公伝』)と喧伝した。
それにしても、平岡に対する世間の評価は抜群であった。
6日
■「〇〇派」と言われる存在、実は実態が怪しいものがある。
■たとえ、どれほど高名な大先生であっても、史料の読み間違えなどが皆無とは言えない。それによって、「論」が大きく揺らぐ場合すらある。
■史料読解について、読み手の政治状況の理解、判断等で読む際にバイアスがかかる。
それと、句読点がないので、読む際に読み手が付すが、
それによっても意味が変わることがある。
7日
■文久3年(1863)6月13日、武家伝奏野宮定功より、
福岡・秋月・中津・津和野・小倉各藩に対して、既に長州藩への応援は沙汰しているが、
6月5・6日は地上戦も行われ、「長州殆ント危急ニ逼ルヲ聞キ、深ク叡慮ヲ悩マサル」状態
であった。
続き)よって、迅速に救援して「尽力揮精神州ノ武威ヲ揚クヘキ」の勅命伝達があったが、
この時点で奉勅を唱える藩は存在しなかった。
8日
■『忠義公史料』と『玉里島津家史料は』は、基本同時に見ている。
これは同一史料を誤って二度読みしないため。
また、どの史料がダブってるかも興味深い。
9日
■福沢諭吉は、生麦事件のイギリス側の要求を翻訳している。
誤訳はなかったが、イギリスの薩摩藩への要求が償金と久光首級であり、
それを求めて鹿児島へ軍艦を派遣すると誤伝された。
償金はまだしも、主君の首など渡せるものではない。
この誤伝により、薩摩藩の徹底抗戦の方針が確定した。
続き)事実は小説よりも奇なりとはこのことだろう。
おそらく、幕閣間を伝言ゲームのように回覧された際、薩摩藩への悪感情も手伝って、
改竄された可能性を感じるが、薩英関係を悪化させるための故意であったのか、
真相は藪の中である。
10日
■西郷隆盛に関する様々な文献等を読み漁ったつもりだが、
西郷崇拝か西郷蔑視かに二分される傾向がある。
中には、極めて極端なものまで。
その両方を読み解き、自身の論を組み立てる作業を今後も継続。
11日
■【備忘録】山尾庸三(1837~1917)同時期在英の薩摩藩留学生と交流、
スコットランドのグラスゴーに移り造船を学ぶ。工部卿、楽善会訓盲院の創立に尽力。
留学期間:1863~1870/
留学先:英国(イングランド:ロンドン大学、スコットランド:アンダーソン・カレッジ、
ネイピア造船所)
■嘉永から安政の改元(嘉永7年11月27日 ⇒ 安政元年)について、
内裏炎上、異国船来航の凶事が連続、そして安政東海・南海地震が引き鉄。
中国の漢籍「群書治要」が典拠。 「選良を選び、篤敬を挙げ、孝悌を興し孤寡を収む。
是くの如くんば即ち庶民、政に安んじ、然る後君子位に安んずるかな」。
■島津久光の朝政参与就任は元治1年1月13日。
その日、武家伝奏野宮定功は留守居役内田仲之助を召し、
「不容易御時節ニ付朝議参予可有之、被仰出候、
依之従四位下左近衛権少将推任叙被宣下候事」を申し渡した
(2月1日・大隅守兼任、4月11日・従四位上左近衛権中将昇叙)。
■近藤長次郎の研究は、坂本龍馬の研究でもある。
12日
■慶応2年7月、関白二条斉敬と朝彦親王が同意した書外のことは重要。
13日
■慶応2年6月、孝明天皇を廃し、有栖川宮熾仁親王を皇位にと水戸藩が画策しているという噂があった。
14日
■文久3年、朝廷によって無二念打払令が出される直前に、長州藩に次ぐ攘夷が鳥取藩によって実行された。12代藩主池田慶徳は徳川斉昭の5男であり、尊皇攘夷に邁進し、朝廷からの信任も特に篤かった。
続き)2月28日には摂海守備総督の勅命を賜り、摂海警衛にあたっていた。慶徳は、幕府を終始擁護したものの、こと対外問題に関しては、あくまでも破約攘夷にこだわり続けた。
■文久3年6月14日、鳥取藩は英国船が天保山沖に来航したため、
実弾5発を発砲して攘夷実行を行った。
その契機は、英国側が石炭を要求したため、警衛にあたっていた藩士が拒絶したところ、
測量をしながら戻ったため。襲来とは言えないものの、攘夷実行の沙汰があるため、
発砲に及んだわけだ。
続き) しかし、着弾はせず、そのまま紀州加田浦の方向に逃げ去ったとの報告が、
大坂留守居役より京都藩邸にもたらされた。
それに対して、藩邸からはその対応が生ぬるいとして、
攘夷実行を督促すために要人を下坂させた。
鳥取藩にとって、攘夷実行は徹底した藩の方針であった。
続き) 留守居役は、大坂城代・大河内信古にもその旨報告したが、
乱暴なふるまいは控えるようにとの達しがあった。
それに対し、鳥取藩は違勅になるとして、その達しを受け取らず、
17日に朝廷始め諸方にそのやり取りを報告し、
今後も外国船を見かけた場合は打払うことを届け出たのだ。
続き)次いで18日、鳥取藩は武家傅奏(武臣から朝廷への奏請を取り次いだり、
勅命を武臣に伝達したりする役職)の野宮定功から攘夷褒賞の勅命を賜った。
併せて、「無二念打払令」の通達もなされ、
鳥取藩から翌19日に大坂城代へその旨が伝えられた。
続き)鳥取藩士の処分であるが、『鳥取藩御留守日記』によると7月8日以降、
藩府は警衛御手当詰藩士10数名に「恐入差控」を、
大坂番頭・荒尾隼人および番士当番・沢双吉に「打拂方及猶豫候段、
不束ニ付隠居」を命じた。罪状はあくまで砲撃時、手緩かったことにあるが、
それにしても厳しい処分であった。
続き)この事件によって、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され、
親藩に準ずる家格を与えられた藩においても、国是に対する実直なまでの認識と、
過激行為も辞さない対応を見て取れる。一方で、藩主自らが幕府に弁明する事態も伴った。幕府も座視できなかった。
続き)政令二途の下、早速、勅命と台命いずれに従っても、
幕府と朝廷との板挟みとなる西国諸藩の厳しい情勢が窺える。
このような状況下で、九州諸藩を中心とした西国諸藩や中央政局において、
政令一途による公武合体を企図していくのは、至極当然の流れであろう。
■文久3年(1863)、攘夷実行の期限の5月10日を迎えた段階で、
実際の外国船への砲撃は長州藩と鳥取藩のわずか2藩に止まっていた。
既に欧米の実力を十分に認識していた諸藩は、例え勅命といえども、
そう簡単に攘夷などできるものではない。
続き) しかし、目下の鳥取藩の攘夷実行を正当化し、
長州藩の孤立と他藩の攘夷実行が一向に進まない事態を打開するため、
三条実美らは朝議を動かした。
そして、武家傅奏野宮定功は6月18日に無二念打払令を公布した。
今までの長州藩を応援すべしというレベルから、一気に無二念打払令にまで至った。
15日
16日
17日
18日
■いかなる史料でも、批判は必要。一次史料でも、改竄は有り得るし、
編纂史料だからと言って、真実を語っていないと決めつけられない。
様々な史料を猟歩し、突き合わせて史料批判を繰り返す。
その作業は気が遠くなることもあるが、個人的には至福の時。
19日
■刊本史料掲載の書簡であるが、年月日の間違いが散見される。
特に「年」は書簡に記載されることが少ないので、注意が必要。
例えば、文久3年8月18日とあっても、内容的に文久2年8月18日ということがある。
つまり、刊本が間違い。常に史料批判は必要であり、自分に都合よく史料を読んではダメ。
20日
21日
22日
■薩土盟約については、拙著『新説 坂本龍馬』の
14章「海援隊と薩土盟約―龍馬の功績とその実相」で
新しい龍馬の功績として、詳述しています。
https://shueisha-int.co.jp/publish/%E6%96%B0%E8%AA%AC-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC………
■坂本龍馬の「緊要政策八条」については、
知野文哉氏『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』(人文書院、2013)を参照。
どのように史実として「船中八策」が形成されていったのか、
その過程を詳細に論証されています。いわゆる「船中八策」は、存在しません。
23日
24日
■幕末薩摩藩の研究は、文久期から入って慶応期だが、西郷隆盛をして、
安政期の重要性も痛感。
■岩瀬忠震 ⇒ 勝海舟 ⇒ 坂本龍馬を『攘夷の幕末史』で描いたが、
勝海舟 ⇒ 赤松小三郎、勝海舟 ⇒ 近藤長次郎も加えないと。
長崎で、岩瀬忠震と赤松小三郎が接触した史料はないが、可能性は有り得る。
25日
■慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃から、
第2次長州征伐(幕長戦争)が開戦となった。
幕府軍は1年以上に及ぶ大坂滞陣に辟易しており、
しかも、病気も蔓延して士気は停滞していた。
そこに、薩摩藩を始めとする諸藩は出兵を拒否したため、
幕府にとっては痛手となった。
■慶応2年7月20日、島津久光・茂久(忠義)父子は征長反対の建白書を提出した。
薩摩藩は、「小松・木戸覚書」(いわゆる薩長同盟)も相まって、
一貫して長州再征には反対しており、あからさまに、抗幕姿勢をより鮮明にした。
困った幕府は、松平春嶽や勝海舟に薩摩藩との仲介を依頼するなど試みた。
■長州藩は、大村益次郎による軍制改革によって、家臣団軍隊の改編が進んでいた。
この経緯は、日本史における武士団解体の歴史における重要な画期となっている。
幕府は散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした
長州軍に大敗を喫した。武器の優劣の差ではない。
26日
■七卿落ちの7人とは、
・権中納言正二位三条西季知
・権中納言従三位三条実美
・左近衛権少将正四位下東久世通禧
・修理権大夫従四位上壬生基修
・侍従従四位上四条隆謌
・右馬頭従四位下錦小路頼徳
・主水正正五位下沢宣嘉。
■元治元年(1864) 6月10日 伊藤俊輔、井上馨が緊急帰国。
オールコックの同意を得、長州藩の攘夷中止の説得を試みるが失敗。
8月5日 馬関戦争。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。長州藩敗北。
但し、賠償金300万ドルは幕府が支払うことになる。
■慶応2年(1866) 4月7日 海外行き許可の認証に関する布告。
商用・留学目的の海外渡航が解禁される。これ以降は密航でなくなる。
5月13日 幕府、英米仏蘭と改税約書(江戸条約)に調印。
輸入関税の引き下げにより、以降輸入が急増。諸藩も貿易が可能に。
■家近良樹先生の『徳川慶喜 』(人物叢書)、
特段新しい視点は見られないかも知れないが、研究史の整理もなされており、
現時点での慶喜研究の到達点。先生自身のこれまでの慶喜関連著作の集大成でもある。
それにしても、慶喜は肝心なところで分かり難い。
私も薩摩藩の視点から、慶喜を追い続けたい。
■「一会桑政権」論。繰り返すが、私は政権でなく、一会桑勢力としている。
あくまでも幕府の出先機関で、政権は言い過ぎかと。その成立について、
私は「禁門の変における長州征討の勅命」としている
(中村武生『池田屋事件の研究』、379頁)。
しかし、その後の提携も強弱が見られる。新論を提示したい。
■『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻、朝日新聞社、1980年、1998年-2001年)
は侮れない。
著者である萩原延壽(はぎはら のぶとし、大正15年~平成13年)は、
各大学からの教員職を断り、在野の歴史家として生涯を通した。
■『吉川経幹周旋記』とは、長州藩を中心とする幕末維新史料集、26巻。
本書は1868年(明治1)に至る当時の原史料を、井上尚志、
戸川勿らが編年体に編纂したもの。1881年に成立。
日本史籍協会叢書6冊に所収。この史料、実は侮れない。
私も今、読み返している。
■長州ファイブとは、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、
野村弥吉(井上勝)の5人。井上馨は外交の、遠藤謹助は造幣の、山尾庸三は工学の、
伊藤博文は内閣の、野村弥吉(井上勝)は鉄道の、それぞれ「父」とされている。
■長州ファイブを迎え入れてくれたUCLの中心人物が、
アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授(Professor Alexander William Williamson)
であった。薩摩スチューデントも、また同様であった。
■ウィリアムソン教授は1824年生まれ、ロンドン出身の化学者。
1849年にユニバーシティー・カレッジ・ロンドンで教鞭を執り、
55年からは同大学の教授となる。
同年には英国王立学会会員になり、63年には英国王立化学協会の会長に就任するなど、
当時の英化学界における重鎮として活躍した。
■ウィリアムソン教授は、長州ファイブを自宅に迎え入れただけでなく、
自らの化学教室に受け容れて教育した。朝晩は英語、数学の家庭教師も務めた。
日本という、遠国より到来したばかりで、まだ言葉も喋れない学生たちに対する、
教授のこのような応対は、よほどの配慮と決断を要しただろう。
続き)その奥には測り知れない人間的慈愛が、人種や国籍、
信仰の違いを超えて働いていたものと思われる。
このような博愛主義的な篤志家に出会えていなければ、
その成果も違ったものになったであろう。
■長州ファイブが学んだのは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学ではなく、
ロンドンのユニバーシティー・カレッジ・ロンドン (University College London(UCL))であった。私のツイッターのプロフィールの写真は、まさにこのUCLです
続き)その理由はその当時の英国では、1827年創設のUCLだけが信仰、
人種、国籍の違いを越えて全ての学徒に開かれていた大学だったから。
彼らの渡英から2年が経った1865年に留学してきた19人の薩摩の学生たちもまた
UCLに学んで長州ファイブと同様に日本近代化の先駆的指導者となった。
■近衛家の幕末からの系譜。数字は初代の鎌足から何代目か。
43近衛忠熙 氏長者,関白,内覧,左大臣,右大臣,内大臣,左近衛大将,権大納言,権中納言
44近衛忠房 左大臣,内大臣,左近衛大将,権大納言,権中納言,麝香伺候,神祇事務総督,
刑法事務局督,神祇知官事,議定
45近衛篤麿 公爵
46近衛文麿 麝香伺候,公爵,内閣総理大臣,外務大臣,司法大臣,拓務大臣,貴族院議長,
枢密院議長
■寺島忠三郎(天保14年 - 元治元年)は長州藩士で尊王志士。諱は昌昭、字は子大。
変名は作間忠三郎など。家格は無給通組。松下村塾で吉田松陰に師事、
文久2年高杉晋作、久坂玄瑞らと御楯組結成。
元治元年、久坂らとともに禁門の変で自刃する、享年21。
■幕末の老中水野 忠精(天保3年(1833)12月16日- 明治17年(1884年)5月8日)
の在任期間の長さは尋常でない。
文久2年から慶応2年まで、4年半ほど。
この激動期に罷免されなかった彼の政治的動向、政治力は検討に値する。
■幕末薩摩藩の研究は、文久期から入って慶応期だが、西郷隆盛をしていて、
安政期の重要性も痛感。
安政期の西郷隆盛、岩瀬忠震、橋本左内、その連関関係、重要。
27日
28日
■長州ファイブのリーダーは井上 馨(聞多)。当時27歳と一番年上であり、
藩主父子の小姓を務めるなど、身分も上だった。
天保6年(1836)11月28日年1月16日)生まれ、大正4年(1915)9月1日没。
外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任する。
「外交の父」。
■長州ファイブの山尾 庸三は天保8年(1837)10月8日生まれ、大正6年(1917)12月21日没。工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿などの要職に就く。初代法制局長官。
「工学の父」。
■長州ファイブの井上 勝(野村 弥吉)は天保14年(1843)8月1日生まれ、
明治43年(1910年)8月2日没。初代鉄道庁長官。
日本初の私鉄運営会社、日本鉄道の生みの親でもある。
「鉄道の父」。
■長州ファイブの遠藤 謹助は 天保7年(1836)2月15日生まれ、
明治26年(1893年)9月13日没。造幣局局長。同局本局に「桜の通り抜け」をつくる。
日本の貨幣経済の確立に貢献。
「造幣の父」。
■長州ファイブの伊藤 博文(俊輔)は天保12年(1841)9月2日生まれ、
明治42年(1909年)10月26日没。初代、第5代、第7代、第10代と
4回にわたり内閣総理大臣を務める。
「内閣の父」。
■長州ファイブの渡英は、駐日英国領事エイベル・ガウワーや
ジャーディン・マセソン商会のウィリアム・ケズウィックらの協力を得て可能となった。
英国留学中は、ジャーディン・マセソン創業者ジェームス・マセソンの甥、
ヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。
■文久3年(1863) 5月10日(1863年6月25日)長州藩、下関で外国商船を砲撃(下関戦争)
5月12日(1863年6月27日) 長州ファイブ、英国領事エイベル・ガウワーの助けを借り、
英国留学のため横浜を密出国
この間、僅か2日。 長州ファイブは攘夷実行をこの時知らず
■長州ファイブの井上馨、山尾庸三、伊藤博文は高杉晋作・久坂玄瑞とともに、
文久2年(1862年)12月の御殿山英国公使館の焼き打ち事件に参加し、
そのわずか5か月後にイギリスへの密航留学のため、横浜を出港している。
このあたりの、彼らの心理ロジックの解明は重要。そのキーワードが「攘夷」。
■長州ファイブは、1993年に日英友好協会や日英文化記念クラブその他有志によって、
ロンドン大学に顕彰碑が建てられた。
そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、
2003年に山口市にも顕彰碑が建てられた。
■文久3年(1863)12月の幕府遣欧使節団は、正使外国奉行池田長発、
副使外国奉行河津祐邦、目付河田煕に随員・従者が加わり、総勢33名という一団。
横浜鎖港談判という極めて実現困難な交渉に挑むことが目的。
続き)パリ到着後、皇帝ナポレオン三世に謁見し、
リュイス外相と横浜鎖港の交渉を数回重ねたが、当然ながら、
交渉は難航して妥結などは望むべくもなかった。
詳しくは拙著『グローバル幕末史』で!
https://kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl213/pdf/213-24.pdf………
■薩摩スチューデントや長州ファイブ、メンバーがそれぞれいつ帰朝したのか、
かなり重要。行くのは一緒だが、帰るのは別々。
29日
■西周が創った言葉。例えば、「芸術」「理性」「科学」「技術」「心理学」「意識」「知識」
「概念」「定義」「命題」「分解」など。
■中山忠光は文久期を論じる場合、外せない存在。
絶対に何方かが研究を深化させるべき重要な人物と、
日頃から考えている(当てはあるのだが。否、もう始まっている!)。
国事参政・寄人から攻めるか、長州藩から攻めるか、浪士論から攻めるか、
切り口は複線存在しているはず。
■以前も語ったが、アーネスト・サトウは、その日記の中で、
「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、
しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」(西郷隆盛)、
「私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物」(小松帯刀)、
続き)「ルシフェルのように傲然」(高杉晋作)、
「色が白く、前額が秀で、くっきりとした鼻つきの立派な紳士」(慶喜)などと評している。
■アーネスト・サトウが交流した人物は、例えば、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、
高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文、井上馨、大隈重信、坂本龍馬、岩倉具視、勝海舟、
山内容堂、徳川慶喜などなど。まさに、幕末オールスターズではないか。
30日